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思い出話

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おじいちゃん これは夫かたの義父のこと
おじいちゃんの孫たちが そう呼ぶので 私もそう呼ばせてもらっていた
それでも 老人会などであんまり義父と歳の違わないおばあさんなどに
そう呼ばれるのには抵抗があるらしく 文句を言ってた
そんな おじいちゃんの思い出話をしてみようかな
一回ぐらいしたことがあるかもしれません

これは2011年私が62歳の時に書いた話です

さあいきますよ
ーおじいちゃんが亡くなってから、ええっと25年ぐらいかな
そのころのおじいちゃんは84歳
おばあちゃんに死なれると はて 息子や娘はいるものの どこへ行こうかな
などと頼りない気分になるらしい
大阪時代の話

 さて おじいちゃんが 二階建ての25坪ほどの我が家にやって来て住んだことがある
その時は子供五人と私たち夫婦で7人家族だった
そこへおじいちゃんがやってきた
末の子がまだよちよち歩きのころだった
それは 私には大変なことだった
子供が一人生まれる毎に 家探しをしたりしていたから 狭いといっても
もっと狭い家に何人もの家族がいるのは よくある話だから おじいちゃんも
一緒に住んでみることになったというわけ
小さな子供や 反抗期の子供や 犬も外で飼っていた
1986年
夫は裁判所に勤めていた だから住宅ローンを組めたのだ

 おじいちゃんは おばあちゃん亡き後 一人暮らしをしていた 
そこにはかって 7人ぐらい住んでいたこともあるらしい
台所と居間と押し入れ 上がり口 洗濯干場 せまいけれども
きれいに 使ってあった
結婚して 私も何度か行ったことがある
おじいちゃんをおとずれると 末の子をだっこして 仏壇を背にして
こたつにはいった
そのならびには げたやさんのおばあさん この方にも会っている
そこらへん一帯が 親しい人たちだというのが よくわかった
おじいちゃんとおばあちゃんが大家族で 親戚付き合いもし 
近所付き合いもしながら 長い間 そういう暮らしが続いたというのは
いったいこれはどういうことだったんでしょう などと質問したくなるくらい
辛抱の足りない 今時の(もうそれも昔になろうとしているけれど)
自分たちなのだろう
おじいちゃんとのくらしに すぐねをあげたし おじいちゃんも 
きゅうくつそうだった 
おじいちゃんも あの一人暮らしの家を出たものの その時々の新しい暮らしの
夢は こうした現実の前ですこしずつ くずれさっていったことだろう

家から自転車で10分ほどの所に文化住宅をみつけてきたのは はてだれだったのか
そこは 歩いてすぐの所に市場もあったし 駅も近かった
おじいちゃんはまた ひとりぐらしをはじめたのだ

ちょっとこれは長いからつづきにしようかな

上の写真は 家のおじいちゃんと孫といきたいところだけど そうではありません
かといってだれだか知りません 
「時計」なんてタイトル自分はつけてるんだけど

 
《 2019.02.07 Thu  _  思い出 》