「こころ」夏目漱石 先生と私 つづき
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「私はそれほど軽薄に思われているんですか。それほど不信用なんですか」
「私はお気の毒に思うのです」
「気の毒だが信用されないとおっしゃるんですか」
先生は迷惑そうに庭の方を向いた。その庭に、このあいだまで重そうな赤い強い色をぽたぽた点じていた椿の花はもう一つも見えなかった。先生は座敷からこの椿の花をよくながめる癖があった。
「信用しないって、特にあなたを信用しないんじゃない。人間全体を信用しないんです」
その時生垣の向こうで金魚売りらしい声がした。そのほかにはなんの聞こえるものもなかった。大通りから一丁も深く折れ込んだ小路は存外静かであった。家の中はいつものとおりひっそりしていた。私は次の間に奥さんのいることを知っていた。黙って針仕事か何かしている奥さんの耳に私の話し声が聞こえるということも知っていた。しかし私はまったくそれを忘れてしまった。
「じゃ奥さんも信用なさらないんですか」と先生に聞いた。
先生は少し不安な顔をした。そうして直接の答えを避けた。
「私は私自身さえ信用していないのです。つまり自分で自分が信用できないから、人も信用できないようになっているのです。自分を呪うよりほかにしかたがないのです」
「そうむずしく考えれば、だれだって確かなものはないでしょう」
「いや考えたんじゃない。やったんです。やったあとで驚いたんです。そうして非常にこわくなったんです」
私はもう少しさきまで同じ道をたどって行きたかった。すると襖の陰で「あなた、あなた」という奥さんの声が二度聞こえた。先生は二度目に「なんだい」と言った。奥さんは「ちょっと」と先生を次の間へ呼んだ。二人のあいだにどんな用事が起こったのか、私にはわからなかった。それを想像する余裕を与えないほど早く先生はまた座敷へ帰って来た。
「とにかくあまり私を信用してはいけませんよ。今に後悔するから。そうして自分があざむかれた返報に、残酷な復讐をするようになるものだから」
「そりゃどういう意味ですか」
*
人は信用したらあかんでなあ(これは私の口調)
そのことで 話は すすんでいるようですが
「とにかく余り私を信用してはいけませんよ。今に後悔するから。そうして自分が欺かれた返報に、残酷な復讐をするようになるものだから」
ふすまの向こうの奥さんはご主人に 何を言ったのかな