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顔というもの

アラン先生の授業

つづき
46 顔というもの

人間の顔というものは完成されたものである。そして、この表情の拒否によって、
いわばつくりあげられたものである。表情の拒否あるがために、顔は、みずからの
うちに隠れるのである。他人の顔のなかに、この種の逃避を、一筆で追跡する仕事
こそ、画家の役目である。写真家には、これができない。世に美貌をうたわれている
人間が、この大きな秘密を十分に知っているとは、とても考えられない。
そこでは、人間存在というものが、物好きな連中の餌食となっているのである。
微笑の値うちは、まず、人が写真や鏡に向かっては 微笑しないということを、
前提としている。『パルムの僧院』には、一人のブルジョワの娘が出てくる。
この娘の目は、それが見つめるすべてのものと、会話をするかのように見える。
このばか娘を、崇高なクレリア(パルムの僧院の主人公ファブリスが、ファルネーゼ
塔に幽閉されたとき、彼を愛するようになった牢獄の司令官の娘。彼と最後まで愛し合う
女主人公)と比べてみるがよい。クレリアの美貌は、まず、お芝居気のない、ある無関心さしか表してはいないのだ。しかし、フランス文学の画廊でのもっとも美しい肖像は、
おそらく、『村の司祭』(バルザックの小説。グラーラン婦人、ベロニックは、身分卑しい職工タシュロンと秘密の恋をむすび大罪を犯し、後に懺悔して昇天する。そのさい、朴訥な(飾り気が無い)ボンネ神父の願力によってヴェロニック  を保った。1841年作)のヴェロニックのそれであろう。この世のものとも思われぬほど美しい子どもである、ヴェロニックの顔だちは、分厚くなり、痘痕によって、いわば仮面をつけたようになるのだが、しかし、深い感情の作用によって、最初の美しさを取り戻すのである。女性にとって真の強みは、意志によって美しくなる、ということであろう。これこそ、すべての女性の真の強みである。美というものは、おそらく、この美の循環以外のなにものでもない。魂をもった女性は、絶えず、それが外に表れて出る。画家の仕事は、たくさんある。
なぜなら、画家は、この動く魔術を表現しなければならないからだ。そして、このことこそ、俗にいう「生きているように描く」ことにほかならない。

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この文章も 2度読むと すこしわかってきます。
わかってきますが 
ー美というものは、おそらく、この循環以外のなにものでもない。魂をもった女性は、絶えず、それが外に表れて出る。
画家の仕事は、たくさんある。なぜなら、画家は、この動く魔術を表現しなければならないからだ。そして、このことこそ、俗にいう「生きているように描く」ことにほかならない。ー

いやあ 女性は その絵を描く画家が 描けば 深く追求して描けば 見えてしまう
というわけですね。 美人と言われている人が 表れて来るものを見られてしまうというのは わかりますが そうでなくても いろんな面を 引っ張り出されるというのは
こまったことですね。自分が知っている じぶんの顔より 他人の方が見えているということでしょうか。
この本は 必ずしも そればかりではないと 思いますが そう思うことであっても
なにか柱のようなものが いくつかたっていて そこから自分でものを考えることになりますね。美というものについても そうはっきり言い切れるものだろうかと 思います。

女性にとって真の強みは 意志の強さによって美しくなる
ええ〜 ん でも この章 最後まで読んで見ましょうか

信じてしまうより 疑いつつ のりぞー



《 2018.11.08 Thu  _  読書の時間 》