who am ?I

PAGE TOP

  • 07
  • 22

かもめ

「かもめ」つづき

私は、兵隊さんの泥と汗と血の苦労を、ただ思うだけでも、肉体的に充分にそれを感取
できるし、こちらが、何も、ものが言えなくなるほど崇敬している。崇敬という言葉さえ、しらじらしいのである。
言えなくなるのだ。何も、言葉が無くなるのだ。私は、ただしゃがんで指でもって砂の上に文字を書いては消し、描いては消し、しているばかりなのだ。何も言えない。何も書けない。けれども芸術に於いては、ちがうのだ。歯が、ボロボロに欠け、背中は曲り、ぜんそくに苦しみながらも、小暗い露地で、一生懸命ヴァイオリンを奏している、かの見るかげもない老爺の辻音楽師を、諸君は、笑うことができるであろうか。私は、それに近いと思っている。社会的には、もう最初から私は敗残しているのである。けれども、芸術。それを言うのも、亦、実にてれくさくて、かなわぬのだが、私は痴(こけ)の一念で、そいつを究明しようと思う。男子一生の業として、足りる、と私は思っている。辻音楽師には、辻音楽師の王国が在るのだ。私は、兵隊さんの書いたいくつかの小説を読んで、いけないと思った。その原稿に対しての、私の期待が大きすぎるのかも知れないが、私は戦線に、私たち丙種のものには、それこそ逆立ちしたって思い付かない全然新しい感動と思索が在るのではないかと思っているのだ。茫洋とした大きなもの。神を目の前に見るほどの
永遠の戦慄と感動。私は、それを知らせてもらいたいのだ。

***

「私は戦線に、私たち丙種のものには、それこそ逆立ちしたって思い付かない全然新しい
感動と思索が在るのではないかと思っているのだ。茫洋とした大きなもの。神を目の前に見るほどの永遠の戦慄と感動。私はそれを知らせてもらいたいのだ。」

太宰治は 兵隊さんの文には 「神を目の前に見るほどの永遠の戦慄と感動が」 見当たらないとしています。
兵隊さんからはどういう文章が送られてきたのでしょう。
このときに 兵隊さんが この作家に感動を与えることができる文だったとしたら
どんな風に書かれているのかと 想像してみるのです
私は 疲れ果ててそれでも 書きたいという兵隊さんが 内容よりも 気の毒になってくるのです。それとも 兵隊さんの夢が そこにあるとしたらどうなんでしょう いろいろな思いになりますね。しかし 太宰治は 戦場のなかに兵隊さんの文を通じて すごいものを見出そうとしている。
人の死が すぐそばにある戦場 

「けれども、芸術に於いては、ちがうのだ。歯がボロボロに欠け、背中は曲り、ぜんそくに苦しみながらも、小暗い露地で、一生懸命ヴァイオリンを奏している、かの見るかげもない老爺の辻音楽師を、諸君は、笑うことができるであろうか。私は、自身を、それに近いと思っている。社会的には、もう最初から私は敗残しているのである。」

このところを読むと このところは 兵隊さんのことと どうつながるの?と私には
わからない。そうそう さきほど「ふぁいる」の中から現れた 「ごつう人まかせの人が
いるんです」とありましたけれども なんかその動きに通じるようなところが あるようで ないようで。(はっきりせんかい) で それが 読者の心をつかんでいるのかもとか 
自己嫌悪 小暗い露地 どこか薄暗いところ 在ります
あつー 難しいことを考えてるばやいではありません 

芸術って なんでしたっけ?
《 2018.07.22 Sun  _  1ぺーじ 》