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こまったなあ

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ヘルマン・ヘッセの言葉

ヘッセは自分の伝記をすべて「魂の伝記」だといっている

「どの作品でも、問題となっているのは、できごとや、もつれや、緊張ではない。
すべて、つきつめれば、独白であって、そのなかでただひとりの人物が世界と自我
とに対する関係において考察される」

「知と愛」では理性を代表するナルチスと愛欲を代表するゴルトムントとふたりの
人物の対話になっているけれど、それはおし詰めば、ヘッセの、いや二つの魂を
もっているものの独白にほかならない。ファウストのいわゆる二つの魂である。そしてふたりの人物に分けられたこの魂は、友情の中で溶け合って、此の上もなく美しく
高い調和のしらべをかなでる。この二つの原理の戦いと調和とは人間にとって
永遠の課題である。

***

正直な話 書かれていることは多少わかっても そこにたどり着いた言葉というのは
自分に置き換えると 「自分と世界との関係」に行くには もう自分も69歳にもなるのに 独白はむずかしいかなぁ
だけど この機会に お客さん 考えてみませんか

二つの魂
何を想像してるんだと言われそうですが ヘッセさんは 
あいまいにできないんでしょうね
昨日見た映画は なんていうタイトルだったかなあ
女性はドイツ人でカソリックの信者 仕事をもっているんだけれども
他の時間はマリア像を持って 他人のドアをノックする
それにたいして 彼女を 玄関先で入れようとしないものもおれば
その宗教に対して激しくやり合うシーンも
他の国から来て その苦しい生活ゆえ アル中になっている女も
そういう人たちに カソリックの教えを体当たりで 伝えようとする
帰ってくると 半裸になって 自分を痛めつける
そして 家には 事故で 半身不随になった夫が いる
どうやら 夫は 同じ宗教ではないらしい
彼女の家には キリスト像が 壁にあり 十字架もある
キリストはまるで彼女の唯一の愛する人のよう
夫は アイロンをかけた清潔な衣服 一人利用のベッド
そんななかで 夫は 叫ぶ

この映画を見ていると 絶対的な信仰は 何が何でも一つで
大変だなあと
しかし 人は その絶対的なものに すがりつきたくなるときは
ある そのときは 頼りになる相手だろうな

明くる日の今日 日曜美術館で ミケランジェロの彫刻をみる
若き日の ダビデ像 その姿は 未来を見据えているらしい
たしかに なにもまとわない 若者が デンとそこに立っているな
彫刻って いわゆる裸だし たしかに 地球の生きもので
服を着ているのは 人間だしな
太陽のもと 堂々とそこに立つ 人はいろいろなことを 考えるかな

で ミケランジェロという人が ピエタと呼ばれる彫刻を のこしている
はじめは 若く美しい母親が 死したキリストをひざにだいている
その像は 完璧に見える

次のは 大理石の中から 浮き出て来た しかしまえのように 
はっきりしてりない 

年月を経て 3つ目の彫刻は キリストと母とミケランジェロが
とけあうように その表情は哀愁を帯びていると彫刻家の舟越さんは
いわれたかな

あの映画といい ミケランジェロのピエタといい あの人たちには
生きていく中で キリストやマリアさまがいる? 

つばめやかなぶんは 十字架にてをあわせることもなく 服も着てないな

さてと 上の絵は2011年61歳の時のものです
この絵ですか
 
ヘルマン・ヘッセは「内面への道」という言葉を「シッダルタ」で 云ったのですか?
ミケランジェロは 若き日に 見える形をあらわし 年を経るに連れて 内面への道
に入っていくんですね
内面は3度目のピエタのように とけあっている
そこまで 彫刻していける 内面は キリストという ぶつかる相手が いるからでは
ないですか?

そういう話を聞くと 自分のこの絵は 若くもなく 老いても幼稚なところがありますね
ときどき こまったりしたときに ぽんとおいてみる 神様や仏様 亡くなった
親 鳥は 自分で とりあえず そこにいる
この絵で 未完の気持ちはなく 
自分は 神様の深い愛や 強い光に耐えられないだろうな
だけど自分は 神様の愛に答えられるかという しばりはないかな

お客さん 人は死んで どの段階に行くと思いますか
どういうものさしで その段階を 知りうるのか
それは 映画を見たり ミケランジェロのことを知ったり
それから 自分を計ってみると わかりますよね
そうすると また いつの日か  地球のどこかにもどってきて
学校に毎日行ったり 職場でしかられたり 
容易なこっちゃないですね






《 2018.07.15 Sun  _  日記(日々) 》