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母の書き残していたこと

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姉のこと

私の生まれた所は 小さな観光地で漁村。
日本海に面して出雲冨士が海の向こうにそびえ 冬は雪の深い田舎町で
冬の間は殆ど乾いた土を見ることは出来なかった。
春が近づいて雪の間から少しでも乾いた土が見え出すと子どもたちは 春がきたといっておおよろこび 皆 はればれした気持ちになり大喜びしたものだった。
私は幼い頃 からだが余り丈夫でなかった。雪の日に姉にネンネコでおぶってもらうのが大好きだった。はの高いつま皮のついた高下駄の音を聞きながらネンネコにすっぽりはいっているのは 何とも気持ちのよいもので あの気持ちはいまだに忘れることが出来ぬ。
今では姉も90歳に近く二まわり位小さくなって せをまるめて歩くけどなかなか兄は元気でさっさと歩く。
私は学校の行き帰りに必ず姉の家により 私が師範学校の入試を受けるときでも姉に勉強を見てもらった。 姉は大変頭が良くて なんでもよく出来た。私は少々のんびりしていたので 姉のいっていた(そこの養女になった?)伯母の祖母は「お春(姉)ならさっさと試験が通るのに」としきりにいっていた。
つづりかたを書いていると 冬の日のこと わたをちぎったような雪がふって来てとか
いろいろ形容詞を教えてくれたが 私はそれだけより今のところ おぼえていない。
姉について山へ 「きのことり」についてゆくと 姉は大変すばやくついて歩くのがやっとでうろたえてせっかく出ている茸をふんで 姉によく叱られた。
姉は長男が生まれる時 母は姉のそばにつききりで さんばさんはいたのかどうか覚えていないが 学校の帰りによってみると母は仏様にローソクをつけせんこをつけて一生懸命おがんでいた。
何かボソボソいっていたがきこえなかった。
姉がこんなにお腹が痛いときに来たらいかん 帰りなさいと叱られて 家に帰った。
姉は優秀な頭をもちながら 早くから子どものない伯母の家に行っていたので 上級の学校には入れてもらえなかった。そのことを 父は大変怒って家から学校に出すからかえせ
といって 先方の伯母夫婦とけんかしていたのを覚えている。 姉はもらわれ先の祖母に大変かわいがってもらっていたので おばあさんをほってかえれぬといって居残った。
先方で姉はいろいろのことを習った。手先のきような姉は 当時あまりなかったミシンを
買ってもらい どこでならったか覚えぬが洋服でも何でも手ぎわよく手早く作った。
又和裁でも何でも縫えた。当時流行していた日本髪も伯母にならってちゃんとゆえた。
ししゅうでもあみものでもきつけでもなんでもできた。伯母とはあまり意見があわず ずいぶんつらい思いをした。
父の一番後悔した姉のことだった。
私が結婚するときも姉が来ていろいろ準備をしてくれた。
日本髪をゆうのに痛いといって 姉とけんかをしながらゆってくれた。
着物もすべて姉がした。姉の一番下の一人娘をつれて来ていたが なかなかのげんきもので 近所の子どもが「田舎ことば」とからかうと棒をふりあげておっぱらってしまう位の元気をもっていた。

***

私は こうした母の日記をはじめて読みました。母が亡くなって(1994年12月27日)今が2017年ですから23年ですか。 娘の私は 母と暮らした間の 記憶や母が話していた思い出話で 母の像を作っていたように思います。強いたよりになる母。
しかし どうでしょう 母はあんがいのんびりした人だったのかと この日記で思いました。これは日記というより思い出話なのでしょう。
母の日記はとても短く作物のとれ具合やその日の出来事が数行書いてあるのみでしたから。
私は今67歳でしたよね。急に68なのかわからなくなりました。そんな私が 「あんさん こんなことがあったんだよ」と母の思い出を読ませてもらうには ちょうどの頃なのかもしれません。もしかして あとになると こうして打つことさえままならないほど
力がうせているかもしれません。これより前だと ちょっと手に取る気分ではなかったのかも。
これを読み進んでいくにつれて 母が私と同じ一人の女性に見えて来るから不思議ですね。
私は兄たちに比べてあまりしっかりしてないところがあると 親や兄弟から思われてたようです。 でも 母とこんなによく似ていますよ。
母は私たちの前で 無理してたのかなぁ。 そういうことだって 私もそんな所があります。
お春さんは母の姉であり だいぶ年が離れていました。そのお春さんの孫がしーちゃんです。母はこの姉のことが大好きで 小さなころはこの文にある通り おんぶしてもらったんですね。
母のお父さんは(祖父)隠岐丸の船長をしていた人です。お母さんは(祖母)そのころはよくあったそうですが 文字が書けませんでした。働き者で子どもを6人産みました。
その頃の子どもは上の学校に行く人は多くはなく しかし早く亡くなったお父さんの言葉が いったん身につけた物はなくならない 学校ににいかしなさい ということだったそうで お母さんはそこを守っていったそうです。母はそのおかげで 師範学校にまで入れてもらったというわけなのです。

母のつづけ字は なかなか読みにくいと ずっと思っていた私ですが こうして打ってみると そんなにむずかしくはないのですね。でも人差し指は疲れます。
美保関が母の故郷ですが 私が生まれた父の実家も雪は多かったですよ。そっくりですね。違うのは 父方は山がで母方は海辺だということでしょうか。

母の結婚式の写真にこの元気なお春さんの娘さん 「そうかあの子が」と今思い出しているところです。
親族たちの記念写真 昔からこんなして遠くの親族が集まるのは そんなときしかありませんね。こんど写真が出てきたら よーくひとりひとり見てみようかな。

 


《 2017.04.08 Sat  _  1ぺーじ 》