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母の書いていたこと

母が書いていた 大空襲のこと

 いつの頃からか何となし不安な世の中になった。 
日本は戦争をするとか皆がよると あることないこと うわさして 不安がっていた。
わたしが一番心配なのは子どもたちのことだった。何としても安全な地に子どもたちをおかねば心配で何も手がつかぬ。 男の先生方は、当時口にしてはならぬことを 平然と云う人もあり じょうだんか知れぬが私は聞きすてならぬことだった。そのうちに学童の集団疎開、ぼうくうごう掘りなど空には敵機さえ飛ぶようになった。なんとかせねばならぬ子どもたちを、主人も集団疎開に行くことになったので 武を連れていってもらった。
勲はまだ十カ月の乳飲み子だったので おばあちゃんとのこってもらい 靖はおじいちゃんと宍粟郡のほうへいかせることにした。そのうちに、大空に飛行機雲をのこしてB29がとび、近くの高射砲が火をふくようになった。
 けいほうがなるたびに生徒をひなんさせ大急ぎで家に帰って勲をおぶって校庭のぼうくうごうにひなんした。そのうちに大空のかなたに B29の姿を眼でも見えるようになった。空襲警報は夜ひるなしになりひびきイギリスの小型のグラマンがトンボのようにとび
逃げる人々に機じゅうそうしゃをはじめるようになった。
勲をこのままでは危険だとやはり三方に(父の実家)おばあちゃんと行かせようと決心して交通機関のむずかしい時につれかえった。ミルクなど気にかけつつ私一人で神戸に引き返す。 戦いはひにひにはげしく、しかし一人になったのでうんと気が楽になったが子どもたちのためどうしても生きのこらねばならぬ。3月16日だったと思う。家の荷物をすっかり荷づくりし オルガンは近所の人にあげきのみですっかり荷づくりした。タンスや鏡台など私がつくった荷物は大きくてそのままにした。
 その夜はとくにけいかいけいほうがなり空襲もはげしく山の町のほうから大ぜいの人が
山をめがけて上りはじめた。 近所の気むづかしい長ひげのおじいさんは消火も協力せずバクダンがおちる時にはおちるとみんながひなんするのにひとりのこった。わたしたちはいつものことだから きのみきのままでそこらへんのくつをはいて 大()所に少しのぼった所に有馬行きのトンネルがあったので みんなそこへ逃げ込んだ。
誰がいいだしたのか トンネルはバク風を吸い込んで中に居るものは吹っ飛ばされるそうなというので みんなぞろぞろトンネルから出た。3月12日の空襲は今までで一番のはげしさで家に帰ったと思えば又空襲で それこそやつぎばやで休むひまなく一きわはげしい中をまたかとみんなそこらのものをひっかけて とびだし山のほうへひなんした。いくたびも子どもたちを疎開さしていてよかったとつくづく思った。
少し静かになったのでみなぞろぞろと家路についたがそこら一面焼け野原で家などあとかたもなく只カマに水を入れておいたカマがただひとつポツンとのこっていた。義父が田舎からもってきていた備中などがそこらへんにころがっていた。
 みわたせば家など一けんもなく兵庫のエキまで見渡すかぎりやけのはらで途中でなんの木か一本立っていた。空は赤く出ている月は赤くやけあとにポツンとなったこの空襲のはげしさにぼうぜんとした。昨日終日かかって作った荷物もなく たとえ駅まで出しても
駅のまわりはまだもえている。一生に見ることのできない大きな火事。昨日までしきりになっていたけいほうも一つもならずただ敵機が下のほうをゆうゆうととびまわっている。
 そこらあたりにはあちこちに死がいがさんらんし大八車に死がいをつんで行く。近所の若いおくさんは子どもをおぶったまま防空ごうで死亡され、変わり者のひげのおじさんもあとかたもなく近所の人も大勢なくなられた。 こどもを失った母親が半狂乱になって子どもをよぶ声もあわれだった。つくづく子どもを疎開させていたことをかんしゃした。ズボンをボロボロにやかれる子どもらがたくさん親をはなれて歩いている。あの子らが駅の下や神社のけいだいで孤児になりくらして行くのだと思うとあわれだ。
 さて家もなしねるところもなし、なんとかして学校まで行きたいと思った。みわたすかぎりやけのはらで 毎日通った道はなく家もなし電柱など倒れて足のふみ場もなくすぐ行ける学校もなかなか行けず。あちらこちらを迷いつつやっと学校にたどりついた。学校は山の上だったので病院とまちがえたか建物は残っていたが死がいの山だ。だれともわからぬ死体、男女もわからず只人の形をしているだけの黒こげ死体 こんな中でねむることもできず 理科室に行ってみると台の上に大きな男の死体がどっかとおいてある。どちらをみても死体ばかり。大八車に次々死体がつみこまれて出て行く。誰かわからず生徒の父兄かもわからずどんどん運び出されて処理されて行く()
神戸の町サイレンひとつならず敵機は我がもの顔にゆうゆうとあざわらうようにとんでいる。
これで完全に負けだと思った。
敵の歩兵が上陸してくるとか 日本には大和という大砲にあたってもしづまぬ軍艦が出来ているから大丈夫だとか、大和はすでにやられているとかいろいろのことがうわさされ、
のこった生徒を疎開させねば。親も亡くなった子どもも多いので残った生徒を疎開させることになり焼け出された私もついていくことになった。

***

母の小さなノートに小さなつづけ字でビッシリ書かれた 戦争の記憶です。 私はうつしとれるかなぁと まず心配しました。それでもこのままにしてはおけないと 書き写します。
 母は戦後生まれの私に この記録文と同じようなことを よく話していました。 父は思い出すのもいやみたいで あまり話しませんでしたね。私は母が同じことをなんどもいうので 聞き流すこともありました。
しかし このくわしい3月12日の記録は 具体的で3人の兄たちは3カ所に別れて父と祖父や祖母に連れられて疎開していたこととか 3ばん目の兄が10カ月の乳飲み子であったこととか この記録でしっかりわかりました。
終戦の年に 祖母がなくなり そして祖父が亡くなっています。心労は老人にとって 大きかったと思います。
母は戦火の中をにげまわり 祖父母たちは孫を抱えて大変だったと思います。
母は 戦況がきびしくなるまえの 孫を子守りする祖父母たちの様子も語っています。

母は その日に起こったことを 見た通りに書いています。

《 2017.04.02 Sun  _  思い出 》