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シューマン

「音楽と文化」河上徹太郎 創元社

シューマン つづき

ともあれエルネスティーヌは当時の彼の作品に姿を現し、有名なピアノ曲集「謝肉祭」では彼女の生地ASCH(アッシ)が、その綴を夫々音符で現して曲のテーマとして織り込まれ、又その中の一曲「エストレラ」では彼女の姿態が絢爛たる音楽で描写されている。これにひきかえクララは当時はまだ14、5歳で、恋を語るにはあまりにも若く、互いに兄妹のような親しみを感じ合っていた。それとともに重要な事件は1834年の『新音楽雑誌』の創刊である。これはシューマンの個人的熱情と同時に、当時しばらく()()として起こってきた浪漫的精神の時勢の波に乗ったものであること当然である。ここでシューマンは主筆として新しい浪漫音楽を宣伝し、自ら「ダヴィッド同盟員」と名づけて、大いに「俗物主義」に反抗の気勢をあげている。例の「謝肉祭」の最後の曲が「フィリステインに対するダビットビュンドラーの行進曲」と名づけられ、勇壮華麗なフイナーレの内に全曲が結んであることは人の知る所である。同時にこの浪漫主義は当然当時の民主主義の政治思想と結びついており、(1830年は有名な七月革命の年で、欧州諸国の大学生がメッテルニヒの保守主義に反抗して立った時である)この曲の中に「ラ・マルセイユ」の旋律が隠されていることも一言注意しておきたい。
 ともあれこの『新音楽雑誌』は1844年までつづき、シューマンの重要な仕事の一つであった。その中で若いショパンがまだ無名の青年として変奏曲を一つ掲げて楽壇に乗り出したときに、「諸君、脱帽し給え。天才が現れた!」と書いてこれをいち早く認めたのは、有名な逸話である。その他若きブラームスを推奨し、メンゼルスゾーンに好意を持ち、ベルリオやワグナーを認めるなど、名実共に浪漫派音楽の指導者となった。

***

「ねえ たぶれっとでシューマン聴かせてよ」
夫に頼んでみました。私はたぶれっとを持っていないし やり方もわからないのです。
「きかしたろか」というので「トロイメライか子どもの情景 どっちにする?」そういわれて 私は「子どもの情景」と答えました。「シューマンはトロイメライを作曲したのか」そう思いました。曲名だけは知っているからです。

で「子どもの情景」を聴いてみると 「あるある 聴いたことあるよ」とうれしくなりました。ながれるような うっとりするほど気持ちのいい曲です。
もう一度 シューマンのところを読み直してみたのですが 「子どもの情景」「トロイメライ」は出てきません。「夫はまちがってるんじゃない?」と 疑り深い私です。
「ほらこれがシューマンやで」とたぶれっとを見せます。Rosemary Brownのところにのっているシューマンは デリケートで悩み深き人に見えます。ところがたぶれっとにのってるのは けっこう明るい感じ。
そして「子どもの情景」はおもわず「やるなぁシューマン!」と拍手してしまいたくなるような曲の流れでした。

で きょうのスケッチは「子どもの情景」にしたのです。
「あんた それほんまに シューマン?」

シューマンは 新音楽雑誌をつくり ショパンを初めベルリオーズやブラームス メンデルスゾーン ワグナーをその雑誌に取り上げていますね。病気を持ちながらこれだけのことをやっていたんですね。クララがこの夫の後を引き継いだというのも うなずけます。

《 2017.03.05 Sun  _  1ぺーじ 》