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木賃宿に雨が降る

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「木賃宿に雨が降る」高木護 未来社 1980

これから先

 ここ十四、五年ばかり、いや、その前も、わたしは明日のことはさっぱり判らないという、あしたまかせの暮らしぶりをつづけてきた。
 わたしは、大酒飲みのくせに体が弱かった。おまけに脳のほうも少々足りんという引けけめはあったが、絶望も悲観もしなかった。だからといって、別段ヤケもおこさなかったのは、めしにありつくだけで精いっぱいだったからかもしれなかった。
 そのかわり、ぶらぶらもした。
 のらりくらりもした。
 それでも、どちらかというと大まじめに生きてきたつもりである。
 わたしはカネがなくとも、二日や三日食わなくてもへちゃらだった。一年や二年病気と仲良く寝ていても、降参などしなかった。そして、自分よりも病気のほうを信じていた。
(おまえが死なせてくれるだろう。そうしたら、一安心だと思っていた。)
 どん底に堕ちて行っても、生きていさえすればたのしみはあるもので、わたしはどんな小さなことでも、ありがたくたのしませてもらった。
「これから先、どうするとかい」
人様から、問われたこともあったが、
「どうするといっても、あんた....」
こたえに困った。
「ちっとは先々のことも考えとかんといかんばい」
「先々のことといっても、あんた、何だろうか」
「将来のことたい」
 いわれれば、なるほどである。
 先々や将来のことを考えろというのは、わたしにも判らないことはないが、先々や将来について、ああしてこうして、ああなってこうなってといちいち計算してみたところで、そんなものが何になろう、といったら、おまえさんの生き方や態度や暮らしぶりがいかんからだ、健全でないからだといわれそうである。
 では、健全とは何だろうか。
 育ててもらって、学校を出て、ちゃんと職に就くことを健全というのなら、わたしにも判らないことはない。だが、そこから、サラリー、地位、財産、名誉と発展してくると、判らなくなってくる。
なぜなら、地位、財産、名誉の類になってくると、大小のたたかいなくしては勝ち得られないからである。たたかいあるところに、はたして健全があるだろうか。地位、財産、名誉なんていうものは、泥棒や詐欺師たちの七つ道具のようなものではないか。それは、そんなものをたたかい盗ったやつらが、一番よくしているはずである。
 子供から、ただおとなになるだけではいけないのか。
 おとなだからといって、ぼんやりでもぼんくらでも、ぶらぶらでもいいではないか。ほんとはぼんやりおとなやぶらぶらおとなこそ、健全でもっとも人間らしいのかもしれないではないか。
 わたしはおおよそ二十年、ぶらぶらやってきた。ぶらぶらも、ほとんどが人夫暮らしをやりながらだった。
 ぶらぶらにはどん底がついてきた。一緒にぶらぶらやりながら、
「これから先、どうするの」
「判らんたい」
「おまえさん、判らんじゃ、しょうがなかろうもん」
「そうたいな....」
と押し問答したが、なるだけ相手には逆らわないようにしてきた。
 もちろん、わたしは念仏も唱えきらなかったし、悟りきれるはずもなかったので、人一倍きつかったり苦しかったり、ひもじかったりしたので、アンコという魚のように口をぱくぱくさせて、堪えてきた。
 ぱくぱくさせていると、絶望なんて遊びではないかと思えてきた。死なんて気まぐれではないかと思えてきた。
 わたしは真剣になって、口をぱくぱくさせた。

  待つことだ
  何を
  愛のようなものを
  愛とは
  待つことか
  いや、おいしい空気のようなものか。
  人生とは
  後悔か
  それとも、ぶらぶらか
  きょうという一日のくり返しか
  喜怒哀楽

「そのようなことより、おまえさん、これから先をどうするとかい」
「さあ」
「さあでは、判らんじゃないか」
「判らんといっても、あんた...」
というわけで、わたしは相変わらずだった。

***

「さあ」
「これから先」のこの話を読みながら わたしは 考えるのです。
わたしは しらずしらずのうちに 「かいだんを着実にのぼるのが いい」
と思い込んでいることに気づかされるのです。

このページを読みはじめるときは 「もしこれから先 とんでもない出来ごとに遭遇した時に このぺーじを思い出して生きていけるかもしれない」と考えていました。
ところが 読み進んでいくにつれて 「さあ」がうかんではきえます。「さあ」が力のなくなったりした自分に「ばあさんののびきったくつしたのように」ゆらゆらと似たようなかっこうで いるかもしれないなどと。

誤字がないか もう一回読み直してみた。一つか二つあった。
それから 驚いた。
 こんなこともかいてあった。「地位、財産、名誉の類になってくると、大小のたたかいなくしては勝ち得られないからである。たたかいあるところに、はたして健全があるだろうか。地位、財産、名誉なんていうものは、泥棒や詐欺師たちの七ツ道具のようなものではないか。それは、そんなものをたたかい盗ったやつらが、一番よくしてるはずである。」ものすごくおこってる 高木さん。どっちにしてもわたしは 「さあ」とはいえないほど 小さくなった。

「どん底に墜ちて行っても、生きてさえすればたのしみはあるもので、わたしはどんな小さなことでも、ありがたくたのしませてもらった。」

ええー!わたしはこんなふうに「生きてさえすればたのしみはあるもので」なんて思えるやろか。もう一回読んだら また驚くんやろな。


さてNEKO美術館です。

ここは いったいどこだろう。
 「ネズミが入るやん この穴。」 父母は蔵の鍵のことをなんて呼んでたかなぁ。手品のようにひきあげるように あけていた。 その頃は 鍵は入るが ネズミは入れない細さだった。 蔵に入ると階段のある空間を ぽんと飛んでみた。それはとてもこわかった。 ねずみよけなのかクリのイガがころばしてあった。

父も母も 古いこの家を よくしようと なおしたりしていた。
まるで 「人はずっと生き続ける」 そういうふうに思い込んでいるようだった。
「健全とはなにか」高木さんが疑問を発したように 今は「人が生き続ける?」と思う。


 
《 2016.09.11 Sun  _  1ぺーじ 》