「蓮以子80歳」北林谷栄 1993 新樹社
自画像 つづきです
祖母は観音さま、金比羅さまを信仰していたので、わたしは小さいときからなにごとにつけ、バチがあたる、バチがあたる、ということばをきかされつづけ、それに律せられつづけた。そのためか、天井から掛け軸のような白地の布がさがってきて、胸の上でキリキリ回るコワイ夢や、部屋中が光って金比羅さまがわたしのイタズラをしかりにくる夢をみておびえたものだ。しかし、あるとき、便所の神さまというものに、なんやら反逆をおぼえた私は、どうしても便所の神さまというのをたしかめたくなった。いま考えるに、便所の神さまはなんとなく位が下のような気がしたので、まず、やってみようとしたのかもしれない。便所の神さまは、便所にツバキをするとバチをあてるということとして言いきかされてきたから、これがどうしても犯してみたくてならない。はたして神はありや否や、という大問題がそれに賭けられているのだ。そして私は、とうとう、便所にツバキをあえてした。その後の恐怖の感じは、バチそのものよりももっと恐ろしいものであったのをおぼえている。私はたちまち便所に取って返し、便所の板の間に額をすりつけて便所神にあやまった。あやまっても、あやまってもその恐怖の感じは当分の間つづいた。この話も、いかに抜け作かという話の系列にはいるが、それよりもっとこまるのは、私のこの弱さである。すぐと、おびえる心である。今日でもまだ私のなかに、それはちがったかたちで、ときどきひょっこり顔を出す。コレが顔を出してはゼッタイにならぬ時があるし、これが顔を出すことはゼッタイに許されぬ時があろうというものだ。
***
「バチがあたる」よくいいましたね。
便所の神さまはそこにツバキをするとバチがあたるのですね。
私は そんなことがあったろうかと思い浮かべようとしますが むかしのあのうすぐらい便所から一刻も用を足してでようとあせっていたのは確かですね。いまごろの便所はトイレとかいって ほんに明るい所です。本棚のある かわいいおきものがならんでいる いいかおりのするところもあります。
バチがあたりそうなことって やってみて あわてて引き返そうとするふうになっているようですね。「へっちゃらだい」なんていってみたくてそのとおりにすると すぐその反動が来て あわてます。これはこどものころのながりかなぁと考えているところです。
おかあちゃんのへそくりをとってあめをかっていたときは 絵に描けるほどの悪夢にうなされたなぁ。「バチあたってたんやろなぁ」
*
さて こんどはNEKO美術館発です。
これは なんのおばけかな?
毛糸のぐるぐるぐるまき(そのとおりやん) 毛糸はきげんがわるいとどこまでももつれてしまいます。まるですっきりしません。「蓮以子80歳」とおばけつながり、ん?おばけということばはこの本ではでてきてませんね。
こういうもつれたおばけを 根気よくすっきりさせる友だちがいました。そういう人ってまずおちついていましたね。きっといまでもそういう所は残していると思うな。
さいならさいなら