ミヒャエル・エンデ「ものがたりの余白」エンデが最後に話したこと
田村都子志夫(聞き手)岩波現代文庫
ー言語というものは、根源的に共同体的なものをさしているようですね?
エンデ ある人ひとりのためにある言語というものは、言語ではありません。
言語というものは、社会的エレメントそのものと言えるのではないでしょうか。言語とは、それが如何なる様式であれ、人間を互いにつなげるものです。つまり、言語は実は(人間を)繋ぐエレメントそのものと言えるでしょう。
ーそれでじゃ、芸術的言語を手段とする、詩人や作家はどうでしょうか?
エンデ これはとてもむずかしい。なんといっても、まず詩人や作家は嘘をつくわけですから(笑い)。
昨日、ある女流"ファンタジー"作家が書いた、とてもすてきな文章を読みました。彼女の小説のまえがきに、こう書くのです。
「芸術は言葉で言えないことを表現する」
詩人や作家はそれを言葉で行う。詩人や作家は、言葉で言えないことを、言葉で表現するわけです。そして、それは正しい。
ただ、現在では、もうやみくもにになにか基準をさがそうとする。この現代では、わたしたちは詩人や作家から基準をしぼりださんねばならないと信じている。しかし、それは大きな間違いです。
芸術から基準をつくりだすことはできません。同じように、偉大な詩や文学の芸術からも基準はつくれない。なぜなら、それは、その実質が嘘というものなのですから。
つまり、虚構です。詩と虚偽との違いはただ、詩は初めから虚構だと表明していることだけで、嘘も虚構ですが、(こちらは)いや現実だと、現実を成していると、主張しているのです。これだけが違いです。
ちょっとホメオパシーに似ていますね。つまり、嘘という猛毒を希釈して使っています。しかし、希釈されることにより、言い換えれば、本来の毒成分は排除され、効能そのものだけが残るわけです....。
そして、詩でも似たようなことが起きます。想像上のもの、つまり虚構を材料として仕事することにより、治癒の効能がうまれるのです。というのも、詩には、つまりは、もちろん治癒の効果があるのですから。アリストテレスがすでに書いていることです。これは大事なことですね。
ただ、このことも今日では忘れ去られ、現実の直接の写し絵が求められる。しかし、それは詩や散文の仕事ではありません。そうではなく、詩人や作家はさまざまな世界をつくりだし、演劇が上演されているあいだ、わたしはそれに身を浸し、その作者を信じるわけです。しかし、それはその本を読むあいだだけです。本を閉じれば、わたしはまた「正気に」戻り、もちろんこれはみんな作り話だと思う。
でも、この作品に出会うことによりーそれは本質では虚偽と同じなのですが、しかし、
わたしはそれが嘘だと知っていますーそこにわたしになにかを見せてくれることや、わたしを豊かにしてくれることが起きるのです。そのほかでは得られない経験をわたしに運んでくれる。ですから、詩や散文は、複雑で、むずかしいテーマなのです。なぜなら、芸術一般がそうであるように、納得できる共通分母を見つけることが、とてもむずかしい、ほんとうにむずかしいからです。
***
「詩や散文は「嘘」です。そのことを我々は知っています。
しかしそのなかで身を浸し、その作者を信じるわけです。
嘘だと知っていてもそこにわたしに何かを見せてくれることや、わたしを豊かにしてくれることが起きるのです。」
そうなんだ。
上の写真はわたしがやった嘘の世界です。なんちゃって
「ただ、現代では、もうやみくもになにか基準をさがそうとする。この現代では、わたしたち詩人や作家から基準を探し出さねばならないと信じている。しかし、それは大きな間違いです。」「芸術から基準をつくりだすことはできません。同じように、偉大な詩や文学の芸術からも基準はつくれない。」「なぜなら、それは、その実質が嘘というものなのですから」
「基準」わからないです今
さいならさいなら