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ピカソとその周辺

「ピカソとその周辺」 フエルナンド・オリヴィエ著 佐藤義詮訳 1964 昭森社

ルーヴルの盗難事件 続きです

 しかし翌朝、アポリネールは、家宅捜索をしに来た警官からグロ街の自宅で起こされた。
 私たちは何も知らずにいた。友人から便りがないので心配はしていたが、訪ねて行く気にもならないでいると、ある朝7時頃、ピカソの家の呼鈴を鳴らす者があった。
 女中がまだ下りて来なかったので、彼の愛人が戸を開けると、ひとりの私服警官が警視庁手帳を示しながら自己紹介をし、9時に予審判事のところへ出頭するため同行せよという命令を、ピカソに通達した。
 ピカソは震えながら大急ぎで服を着たが、手伝ってやらなければならなかった。彼は恐怖のあまり度を失っていた。些細な事で度を失ったものだ。
 親切そうなその警官は、感じがよく、にこやかだが、用心深く、言葉巧みで、話を引き出そうとした。しかし一方ピカソは警戒していて、何も言わなかった。ピカソは先方がどうするつもりなのかよくわからないままに、彼に伴われて、警視庁におもむいた。その日彼が乗らなければならなかった、ピガール・アール・オー・ヴァンの乗り合いバスは、彼にとっては長い間、嫌な思い出として残った。警官は連行者の費用でタクシーに乗る権利はなかったのである。
 警視庁留置所に着いて長い間待たされてから、ピカソは予審判事室に導かれたが、そこで、アポリネールに会った。彼は蒼ざめて面やつれし、髭も剃らず、カラーは敗れ、シャツから胸をはだけ、ネクタイもせず、やせ細り、げっそりして、痛々しい程疲れ果てて、見るに忍びない様子だった。
二日前から拘留されて、罪人として長時間尋問を受けたので、彼は言われる通りに一切を自供したのだった。彼の自白のなかには、真実の点は極めて少なかった。休ませてもらうために、でまかせに自供したのだった。
 強いショックを受けて、ピカソはがたがたと震え、気を失いそうになった。恐ろしさに震えて、ひとりでは服も着れなかったその朝にも増して、気が転倒してしまった。
 後から彼が私に話して聞かせた光景については、ここで述べることができない。彼もやはり予審判事が彼に陳述させようと思ったこと以外は、何も言う事ができなかった。それにギョームは結局はその友人を巻きぞえにしてしまったほど、真偽取り混ぜて自供したのだった。逆上した彼がだれを巻きぞえにしないでおいたろう?
 彼らの子供っぽい愁嘆ぶりを目のあたりにして、厳格な態度を保つのに骨を折ったこのなかなかの寛大な判事の前で、彼らは二人とも泣いたらしかった。
 ピカソは友人の自白を否認して、彼を知らない振りをしたという噂が当時あった。
 それは全然嘘である。それどころか、彼は友人を見捨てなかった。そして彼のアポリネールに対する友情は、その時一層強く表明されたのである。
 ピカソは告発されなかったが、証人として予審処理に従うよう申し渡された。
 アポリネールはサンテ監獄に送られたが、数日後出所し得たのは、弁護しがいのある
この事件をひきうけた友人の弁護士ジョゼ・テリのお陰だった。

***

この震えながら服を着るというピカソのことを そのころの警官や警視庁が余程恐ろしいところだったのか、それとも生活のなかでかいま見られたようにピカソが恐がりだったのか。
アポリネールは尋問に気が転倒して でまかせを喋ってしまっていたのですね。ピカソも同じようになります。わかるわー。
でもあれですね ピカソがナチの兵隊がアトリエにやってきて 「ゲルニカ」をみて「それはどういう絵だ」ときいたとき 「お前たちがやったことを描いている」と言ってのけたんでしたっけ?この違いはなんやろ。ふるさとをメチャクチャ爆撃した怒りが 大きすぎてそうでたのかな。 画家は自分の作品の前で勇気が出るのかもしれないな などといろんなことを思っているところです。この事件でアポリネールとピカソは友情がさらに深まったんですね。二人して泣くなんて。何か想像してしまいました。
もう少しで「ルーヴルの盗難事件」は終わるんですが あつー。いずれまた

さいならさいなら


《 2016.07.30 Sat  _  1ぺーじ 》