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ミヒャエル・エンデ

「ものがたりの余白」エンデが最後に話したこと ミヒャエル・エンデ 田村都志夫(聞き手)

遊びについて

 ミケランジェロの後期ソネット詩を読んでごらんなさい。芸術をただもう恨むだけで、なぜおれは生涯こんなことをしたんだろう、この馬鹿げたことはなんなんだ、という下りなどを読んでみるといい。シェイクスピアは、晩年の二十年間、一行も書かず、金融業をやるだけだった。
 表面的な意味でいえば、シェイクスピアはたしかに挫折しなかったし、ミケランジェロも表面的な意味ではたしかに挫折していません。しかし、二人とも、人生のある時点で、彼らが努力していること、そのために息をきらして闘っていることは徒労にすぎないとさとったのでしょう。いや、さらによく言えば、無償だとさとったのでしょう。これはこの語が持つ二つの意味においてです。つまり、タダであり、徒労だと。
 でも、わたしはこの歳になって、人生において大事なことは、みんな無償のことだと、そう信じるようになりました。それだけが本質的なことなのです。それ以外のものはビジネスにすぎない。天国に行きたいからと、人が行う善行もみんな、神を相手に行うビジネスでしょう。お行儀がいいから、わたしは天国に行けるはずだって。そうじゃない。善行は、それが無償でおこなわれるときだけ善いことなのです。
 だからこそ、遊びもそうなのです。遊びも無償です。タダであり、徒労です。言い換えれば、それはなんの役にも立たないし、なんの作用もしない。そして、ひょっとすれば、本質的に....これも、このようなことを考える過程で生じる矛盾のひとつですが、ひょっとしたら、そもそも本質的なことで、なにか作用するのは、なにも作用しないもの、つまり、無償のものだけではないでしょうか。
 手短に説明すると、わたしの芸術観全体、わたしが「遊び」を好むのは究極のところ...(たとえば)世界史を見てみればそれでいい。二千年のヨーロッパ史を。そこでは、権力を得ようとして、互いに殺し合いをしています。よろしい。そうして権力を握る。でも何を得たというのでしょう。二十年後には、かれらも死ぬのです。その後では、権力といえどもなんの役にも立たない。

***

「無償 タダ 徒労」とエンデは言います。
世の中でのことを考えますと 家があり 食べることができる のはタダではできないと思い込んでるわたしは どうなんやろ。

芸術に関しては 「無償 タダ 徒労」これは隣接した話です。わたしがだれかにめんとむかってそういわれたら「ううっ」とか泣きます。
シェイクスピアやミケランジェロなら 成功というものを得た後では これらの言葉は「ううっ」どころじゃないかもしれません。ミケランジェロは「芸術をただ恨むだけで、なぜおれは生涯こんなことをしたんだろう、この馬鹿げたことはなんなんだ」というこうだりがかれの後期ソネット詩のなかにあるそうです。あのミケランジェロが?

シェイクスピアは、晩年の二十年間、一行も書かず、金融業をやるだけだった?

 エンデは 「無償 タダ 徒労」「いいかえれば、それは、なんの役にも立たないし、なんの作用もしない。そして、ひょっとすれば、本質的に....これも、このようなことを考える過程で生じる矛盾のひとつですが、ひょっとしたら、そもそも本質的なことで、何か作用するのは、なにも作用しないもの、つまり、無償のものだけではないでしょうか。」そう云っていますね。ミケランジェロやシエィクスピアがどうしてそんなふうになったのか 知りたいですね。エンデは教えてくれましたけれども まだよくわからないのでね。

ほんまかいな。もっと読んでみたいなぁ。いずれまた

さいならさいなら


《 2016.07.14 Thu  _  1ぺーじ 》