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フランク

「音楽と文化」河上徹太郎 昭和13年 創元社
この私のまったく知らない フランクという音楽家は フランスにおいてどのような人だったのか。これを打ってしまうのは おえりゃーせんのです。イタリーやドイツの音楽家 浪漫派の音楽 この茶色になってしまった古い本 どうしましょう。 でもこのフランクという音楽家の人柄がなんともええんです。ちょっと気に入った所だけですみませんが...

フランク

彼のあまりに重厚な楽想、伝統的形式の無視、したがってそれから来る演奏の困難は、決して既成音楽家や一般聴衆からいきなり受け入れられなかった。1887年には「フランク祭」が催され、数曲が上演されたが、その演奏はみじめなものであった。しかもダンディ等がそれをやかましく指摘すると、フランクは微笑みながら「いや、君たちは厳格すぎるよ、私はあれで満足してるんだ。」といった。かれの唯一の交響曲ロ短調は1889年に音楽学校で初演された。それも楽手たちの反対を押し切って楽長ガルシンの好意によって行われた。

「無能力を無理押しに押し通して独断まで持って来た作品」だと評された。

しかも会が終わって家へ帰ると、家族の人たちが取り巻いて「聴衆の印象はどうでした?大勢拍手しましたか?」と聞くと、フランクはただ演奏された作品のことしか考えずに「ああ、私の考えていた通りの音が出たよ」とこたえただけだった。

ヴァイオリンの鬼才ユージェーン・イザエが欧州楽界に紹介してくれた。イ長調ソナタや、とくに死ぬ前年に書いた弦楽4重奏はしばらくにして聴衆の喝采をはくすことができた。フランクはこのうまれて初めての成功に微笑み、素直に弟子に語った。「さあ、公衆がが私を理解し始めたぞ。」それから1年あまりたって、彼はついに死んだのであった。

このフランス音楽の先駆者に エマニュエル・シャブリエは
弔意をこう述べた。
「さようなら、師よ、そしてありがとう。あなたは立派な仕事をなされた。我々があなたのなかに仰ぐのは、この世紀のもっとも偉大な芸術家であり、また比類なき教師であります。長く議論になった楽曲を身に纏い、剛毅な精神と信仰と反省に満ちた音楽家たちの一時代を、その驚くべき教授でもって開いたのである。しかもかれの人物たるや正にして直、情厚くして その言葉は常に善と誤りなき忠言とに満ちていた。さらば、師よ。」

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大急ぎで 打ちました。なぜならば雷が鳴りそうだからです。
ドビュッシーなどがこのフランクに影響を受けた訳ですが、フランク、なかなか認められませんでしたね。そんな時の対応が なかなかのもので 人はぼろくそにいわれると むくれたり 逆切れしたりするものですが この人は そうではなかったではないですか?

時代は変われど ここにはその人が出てましたね。

音楽家にしても 画家にしても その時代にあっていなければ なかなかいい評価がでないこともあると こうして歴史をみてみるとわかります。われわれはその道のりを尊敬すると同時に 光るものを感じることをできるようになれればいいですね。

フランクのことは長かったです。もうちょっと残ってますが いずれまた 


《 2016.07.12 Tue  _  1ぺーじ 》