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ゴーギャン

「印象派時代」福島繁太郎著 昭和18年 光文社

ゴーギャンの続きです。ゴーギャンのことはもうおしまいにしょうと考えていたんですが
福島さんのおしまいのページは これまたよかったのです。 福島さんの文章では ゴーギャンのあの時代の表現の中での話がよかったからです。


 ゴーギャンのもう一つの特色は、詩を必ず画面に織り込んだことである。ゴーギャンに従えば、絵画は思想の象徴でなければならなかった。

印象派は絵画より文学性を排除した。セザンヌはより一層純粋に造型性を追求した。この時代の風潮に逆らって、ゴーギャンは絵画に再び文学を取り入れることを企てた。
 派手な大柄な腰巻きだけをまとった半裸暗褐色の人体を、異様な植物の繁茂する熱帯の風景の下に置いて、エキゾッチックな情緒を漂わすことは、彼の好んで用いた手段であった。
 このエキゾティシズムは後に青年画家の人気を集めた原因であって、日本でもゴーギャンの人気のあるのは、エキゾティシズムとその小説の様な生涯とに依ることが多い。
 このエキゾティシズムを安価なセンチメンタリズムであるとする人もあるが、これはエコール・ド・パリの純粋造型主義にあまりとらわれた考えではあるまいか。
エコール・ド・パリはセザンヌの伝統をついで、純粋に造型性を追求した時代であった。文学性を加味した絵画が、一段低い芸術かの如く思われた傾向がありはしなかったか。
エコール・ド・パリが純粋に造型性を追求した理由は肯ける。
西洋においては東洋とは異なって絵画に記録性や文学性が重視されて発達してきたため、造型美の独立性が十分に認識されていなかった。それゆえ絵画が造形美だけで成立し得るものであることを強調する必要があったのである。
 しかし絵画が造形美だけで成立し得るものとしても、そこに記録性や文学性を含んでいたら、これらの要素は絵画に有害なものであろうか。記録性や文学性を含む絵画は、一団低い芸術であろうか。これらの説を是認する根拠は一つもないように思われる。記録性や文学性は絵画の成立要件ではないとしても、それらが絵画の成立をさまたげるとは思われない。要するにこれらの性質は、絵画にとってあってもよし、またなくとも差し支えないのである。その有無によって絵画の傾向は区別はできるけれども、優劣を論ずべきではない。純粋に造型性を追求すべきか、他の性質を加味すべきか、()()作家のテンペラマンに依ることであるが、時代的に大きく観察すると自然主義と理想主義が交互に隆()するがごとく、純粋造型絵画と文学的絵画とは交互に起こってくるのではあるまいか。エコール・ド・パリは純粋造型主義が全盛を極め、反動として病的ながら文学性を加味したシュール・リアリズムが起こったところで終わりを告げた。これから考えれば今後は文学性を相当加味し、健康な思想を象徴した絵画が時代の風潮となるであろう。大らかな高い思想を象徴した絵画とは、内容空虚な、造型性も何もない際物的な時局便乗画を云うのではないのは無論である。

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ゴーギャンの時代は 造型性全盛の時代だったんですね。セザンヌは造型性の画家だったというわけで。セザンヌはあまりむくいられぬまま亡くなっているので よかったなぁなどと思っている間に ゴーギャンの絵画は造型性がないとこうくるわけですね。
文学性を加味した病的なシュール・リアリズムはエコール・ド・パリの純粋造型主義の反動だと。

福島繁太郎はこの本を昭和18年に出しています。
かのナチスドイツのヒットラーもシュール・リアリズムを病的だといったんですよね。
福島さんは「これからはもっと健康的な思想を象徴した絵画が風潮になるであろう」
そう考えていたようです。
しかし 健康的ということは どんな絵画だったのか。福島さんのその後の読みはあたっていたのか。そんなことを考えさせられるこの本になりました。
昭和18年の芸術は 2016年という未来に向かって どういうふうであったのか。
「時代的に大きく観察すると 自然主義と理想主義が交互にやって来る隆()(漢字が読めない)?」今はもっと複雑な交互というか波なんでしょうね。

今も昔も 人々は表現してきましたね

もう1ぺーじほどつづきはあります

さいならさいなら  


《 2016.07.05 Tue  _  1ぺーじ 》