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ブロンテ姉妹

ブロンテ姉妹 中岡洋 NHKカルチャーアワー 2008

家庭教育

 姉妹への家庭教育には偏りがあったものの、彼女たちの文学に対する知識はだれにも引けを取らないものであった。シャーロットのロウ・ヘッド・スクール時代の学友たちは、シャーロットが運動神経はさほどではないが、文学や詩人についての知識は抜群であったと証言している。なかでもウイリアム・クーパー(1731−1800)の「難船者」は愛読詩で丸暗記していたそうである。少女たちは声をそろえて感じ入るがごとく悲劇の水夫の運命を朗誦したことであろう。

おもちゃの兵隊

 姉妹が創作を始めたきっかけは1826年6月5日、パトリックがリーズの宗教会議の帰りにブランウェルへおもちゃの兵隊12体をお土産として買ってきたことである。翌日、目をさましたきょうだいはそれぞれに気に入りの兵隊を選び、好きな名前を付けて彼ら独自の空想劇を始めることになった。これがブロンテ文学の始まりである。シャーロットはウエリントン、ブランウェルはボナパルトとそれぞれ名づけ、下の二人は名前こそつけなかったが、兵隊の顔の表情からそれぞれ「グレイヴィー」(生真面目やさん)と「ウエイティング・ボーイ」(小姓さん)とあだなをつけた。これが大本になって、ブロンテ文学大木がしげるようになった。最初はこれらの人形で他愛もないあそびをしていたが、やがて人形遊びは創作として形を表しはじめるようになる。きっかけは次のような情況であった。きょうだいは、家事の手伝いをしていた年老いた女性タビーと蝋燭をつけるかつけないかで言い争いをしていたのである。

 11月の冷たい霙(みぞれ)と侘しい霧に続いて吹雪と根深い冬の強い身を刺すような夜風がやって来るころのこと、或る夜、わたしたちはみんな暖かく燃える台所の炉のまわりに座っていた。ちょうど蝋燭を点けるのがいいかどうかタビーとけんかをし終わって、タビーが勝ったものだから、蝋燭は出されないままで長い沈黙が続いていた。とうとうBが大儀そうにこう言って沈黙が破られた。何をしていいかわからないや。これはEとAによってこだまのように繰り返された。
タビー「もう寝たら?」
ブランウエル「それより何かしたいなぁ」
シャーロット「タビー、今夜はどうしてそんなに機嫌が悪いの?ああ!そうだわ、わたしたちがめいめい自分の島をもっているとしたらどう?」
ブランウェル「それなら、ぼくはマン島がいいよ」
シャーロット「じゃあ、わたしはワイト島を選ぶわ」
エミリ「わたしはアーラン島」
アン「じゃ、わたしはグァンジー島にするわ」
 そこでわたしたちの島の主要人物になる人々を選んだ。ブランウェルはジョン・ブル、アストリー・クーパー、リー・ハントを選んだ。わたしはウェリントン公爵と二人の息子、クリストファー・ノース商会とミスター・アバーネシーを選んだ。ここで時計が侘しい響きで7時を打ち、わたしたちの会話が途切れてしまったものだから、もう寝なさいと言われてしまった。(エリザベス・ギャスケル著『シャーロット・ブロンテの生涯』第5章) 
 翌日彼らは数人の人名を加えて、それぞれの王国の体制が整った。これが最初の創作「島の人々の物語」である。これは数年続いたあと、「若者たちの劇」に発展し、相互の国で戦争が起こったり、政治が展開されたりしたのである。

***

5人の姉妹と1人の男の子のきょうだい。ろうそくがつけられなかっただけで こんなおはなしが くりひろげられたわけですね。
「11月の冷たい霙と侘しい霧に続いて吹雪と根深い冬の強い身を刺すような夜風がやってくるころのこと」なんかわたしまでわくわくしてきます。
外の世界をあまり知らないと言う限定された そして7時になると「もう寝なさい」といわれるような 家庭のなかですけれども このきょうだいは そんななかでお話をつむいでいく。こどもは なに不自由なく育つというなかに おもしろいものがうまれるわけではないというか。確かな愛情と。いやぁ。おみそれしやした。時代のこともあるかも。とにかくこういうふうにきょうだいで創作がはじまっていくんですねぇ。

これは「家庭教育」というところで、わたしはなんとなく堅苦しく感じていたんですが 
「外の世界を知る」は 新聞でかなりこのきょうだいは知っていた。その時代に新聞を読む人たちは大人だけとか それも少なかったかもしれません。そして学校で習うような事は家で教えてもらう。おもちゃの兵隊のおみやげがお父さんからもたらされる。そういうところから ブロンテ文学ははじまるんですね。

さいならさいなら
《 2016.07.29 Fri  _  1ぺーじ 》