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ゴーギャン

コレクション 瀧口修造 1991 みすず書房

ゴーギャン

 ゴーギャンはマルキーズ諸島の悪政を痛烈に暴露した文章を再三「メルキュール・ド・フランス」に送ったが、そのつど没書にされた。かれは最後にタヒティ総督のプティに宛てた長文の公開状を送ったが、ようやく彼の死後十五カ月目の同誌(1904年8月号)に掲載された。しかも編集部は植民省の忌()にふれることを怖れて、「死を惜しまれる画家の性格に真実の証明をあたえるため」に掲載したと断るほどの慎重さであった。
 1903年は悲劇的に明けた。
 1月7日に大洋州を襲った台風は五百人の犠牲者を出したといわれる。折柄タヒティにきていたフランスの砲艦デュランス号がもっとも被害のひどかったトゥアモトゥ島に急派され、パペーテ島に停泊していたイタリア船カラブリア号も救助に活躍した。このデュランス号にヴィクトル・セガランが軍医として乗り組んでいた。セガランはフランスを出発する前に、レミ・ド・グルモンからゴーギャンのことを聞かされ、タヒティへ着いたらぜひ会ってくるように奨められていたのである。しかしトゥアモトゥの周辺で負傷者の手当や難民への食糧補給に忙殺されていたセガランは、マルキーズ島には寄らずにタヒティ島にもどってしまった。かれがタヒティでゴーギャンの死(5月8日)を知ったのは6月か7月であり、デュランス号がマルキース島に停泊したのは8月に入ってからであった。おそろしい孤独のなかにいたゴーギャンとヨーロッパからの最後の訪問者とはついに会うことができなかった。

***

ここでは大洋州を襲った台風は500人の犠牲者を出したんですね。
タヒティで会える筈だった(そのときゴーギャンはタヒティにはいなかったということ?情報は届いていなかったんでしょうか)軍医ヴィクトル・セガランはこの台風の負傷者の手当や難民への食糧補給に忙殺されていてゴーギャンのいるマルキーズ島にはよらずに タヒティにもどってしまいます。

再三マルキーズ諸島の悪政を痛烈に批判し送ったが「メルキュール・ド・フランス誌」は没にしたんですね。植民省のことを怖れていたんですね。
日本では1904年に日露戦争が起こっています。(どんな時代だったんだろうと歴史の本をのぞいてみる私ですが)
なにもかもがゴーギャンに味方せず 孤独のうちに死んでしまったかったような感じですが やがてどう変わっていくんでしょうね。

さいならさいなら
《 2016.06.18 Sat  _  1ぺーじ 》