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ゴーギャン

印象派時代 福島繁太郎著 光文社 昭和18年

ゴーギャン 

 この年の秋、ゴーグの招きに応じてゴーギャンはアルルに行ったが、数カ月にして悲劇的な事件を起こしたのは周知の事実である。
 事件の後ゴーギャンはパリーには帰らず、ブルターニュに直行したが、今度はポンタヴァンに行かず付近の小村ポールデュに行った。ポンタヴァン派も又ポールデュについて行った。
 この集団は1892年に、ナビスという名称の下に展覧会を開いたのでナビス派とも呼ばれているが、首領のゴーギャンが後にタイチに去ってしまったので、いつとはなしに霧散し、各人は各自の道を進んだ。ポンタヴァン派の存在を否定するものがあるが、なるほどこの集団には一定の画風はなかったが、ゴーギャンを首領の下に、一群の青年画家が印象派にたいする反動運動を起こしたじじつは否定できない。
 ゴーギャンはブルターニュからパリにもどったが、パリに永く止まろうとは思わなかった。
 マルチニック島において彼が完全に彼自身であったことを思い、再び自然の壮大なる力と、文明からの絶縁をしたい、今度はタイチ島に渡ろうと考えた。しかしそれには旅費がない。作品の買立をやって資金を作らねばならないが、それには大新聞の記事が必要だ。そこでかねて知り合いの象徴派の大詩人マラルメに頼んだ。マラルメはオクターヴ・ミルボウに紹介してくれた。やがて「エコー・ド・パリ」紙に素晴らしい記事が現れた。この記事のお陰で売立も好結果に終わり、この資金によってゴーギャンはタイチに渡ることができた。
 憶えば当時は幸福な時代であった。文学者も「芸術家は革命家か漂流者(?ちがうかも)いづれかである」事を知っていた。文学者が絵画には全然無理解で、通俗作家よりわからないなどという情けない事はなかった。なんらかの新しい美しさを見い出さんとする作家には深い同情をもっていた。


瀧口修造と福島繁太郎を交互に読んでいるのですが 面白いですね。
「憶えば当時は幸福な時代であった」と福島さんは感じています。「何等かの新しい美しさを見い出さんとする作家には深い同情を持っていた」
ゴーギャンはタイチやマルチニック島でも そこで官憲やカソリック教徒の上層部にはよくは扱われなかった。原住民にしてもやはり金や権力にはだまされた。 ゴッホともうまくいかなかった。世間は冷たいなあとも思ったかもしれませんね。フランスの画商でもゴーギャンを 持て余していた。

でもほんの一部の人たちによって このゴーギャンの美しい絵を理解する人がいたんですね。ゴーギャンという芸術家を理解しようとした人々がいたということを 福島さんは「幸福な時代」といっています。

さいならさいなら


《 2016.06.17 Fri  _  1ぺーじ 》