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ゴーギャン

コレクション 瀧口修造 1991 みすず書房

ゴーギャン

 ゴーギャンの病気はしばらく小康をえていたが、またもかれを悩ましはじめる。パリの最後の夜にうけた梅毒に加えて、湿疹は脚の半分を侵し、夜も眠れなかった。それに心臓の危機が再発する。かれは繃帯を巻いた脚を引きずるようにして歩いた。ヴォラールからは約束の金はめったに送ってこない。それも不規則で当てにはならない。かれは一時フランスに帰って病気を治療し、かたがたヴォラールとのあやふやな契約に決着をつけようと考えて、G・D・ド・モンフレーに相談すると、かれの返事はこうであった。「君は大洋州のかなたから、おどろくべき作品、模倣をゆるさぬ作品、偉大な人間つまり世間から立ち去った人間の作品を大西洋のかなたから送ってくる伝説的な芸術家である。
君の敵(愚かものを悩ます人物のつねとして君は多くの敵をもっている)は沈黙を守っている。たれも戦いを挑もうとしない。想いもよらぬことなのだ。君はあまりにも遠くにいる!君は偉大な不可侵権を享受すべきだ。君はすでに芸術史のなかに入っている。」モンフレーは意識したかどうか知らないが、ゴーギャンにとって、この手紙は決別の宣言にひとしいものであった。ヨーロッパとの距離が急におそろしく決定的なものとなったように見えた。一方、小さな島のなかでは、ゴーギャンと白人とのあいだに深刻な対立の溝が掘られていた。この島の憲兵は、公証人と執達吏と、さらに超税吏と税官吏とを兼ねていて、実質上の専制支配者であった。かれらは原住民を威圧し、あらゆる手段で搾取した。祭日に住民たちを呼んで椰子酒を振舞い、かれらをさんざん酔払わせて置いて、泥棒罪で百フランずつの罰金をしぼり取るという悪辣なことをした。裁判官は十八ヵ月毎にマルキーズ島にくるだけで、しかも憲兵とは気脈を通じていたので、法廷で申し開きをしても無駄であった。ゴーギャンは原住民を擁護し、こうした不正と執拗にたあたかいはじめた。1902年の夏、憲兵班長シャルピエはゴーギャンを、農民の学校の抛棄(ほうき なげすてること)、収穫税の滞納の責任者として告訴している。

***

自分の国を出た白人たちは 原住民にかなりひどいことをしていますね。
憲兵が公証人と執達吏、税官吏、超税吏をかねている つまりそこをすべてにわたって支配しているということなんですね。その人物が悪賢ければ 原住民は搾取されるだけですね。ゴーギャンはあのからだで なんとかしようとしましたが 反対に税金を払わない者として扱われる始末。ヴォラールやモンフレー(この人はどんな人でしたっけ?)からの助けはなくなり 遠く離れた所で 不安だったでしょうね。現地での白人の話し相手はいたのかな。原住民でもやはりお金を持った強いものに巻かれてしまうから そうなるとゴーギャンも孤独でしたね。

モンフレーが「伝説的な芸術家である」といっていること。「愚かものを悩ます人物の常として君は多くの敵をもっている」これはどういうことかなぁ。黙って見過ごしてうまく世間をわたっていくことができないから 敵を作り 苦しむことになるということかな。
「世の中をうまくわたれなかった」そのときはそうだったのかなぁ。家族も怒るしね。でも歴史に残りましたね。ゴッホでもゴーギャンでも生きてるときの大変なこと。
それでも 描こうとするものがあった 死ぬまで これですかね。
《 2016.06.13 Mon  _  1ぺーじ 》