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セザール・フランク

音楽と文化 河上徹太郎 創元社 昭和13年 続きです。

セザール・フランク

幼にしてフランクの父親は彼をピアニストにしようとした。そして11歳の時すでに演奏旅行に上がっているし、その後パリに移って王立音楽学校に入り、ピアノ、オルガン、フーグの技術で夫々賞を得ている。その頃はリストとかタルベルグとかのピアノの名手が欧州の諸都を経周って華やかな名声を博していた時代であり、フランクの父親もそれに眩惑されていたわけで、従ってフランクの後世進むべき道とは少し異なった方向に強いられ、当時の作品も作品三の「牧歌」や作品九の「バラード」のごときリストばりの技巧的に大げさなピアノ曲を書いたりしたのであった。しかしフランクの真の内面的な音楽愛はすでに目覚め、父親のこの世間的な成功への関心と次第に相容れなくなってきた。父は彼をベルギーに連れ帰ったが、やがて彼はパリに出、オルガンやピアノの教師として苦しい生活を続けた。しかも当時フランスの楽壇はフランス大歌劇の世の中で、マイヤベールや
ロシニの天下であり、フランクの目ざす「純」音楽は見向きもされず、彼は二重の苦境に陥った。このころしばらく彼は前述のごとき二寺院でオルガン弾きの地位を与えられ、精神的にも物質的にも一息つくことができたのである。
 1848年。それは二月革命の勃発でフランスは政治的に混乱を極めていたときである。フランクはそのため弟子の多くを失い、一層逆境にあった。
しかも丁度その時彼はある若い女優に恋し、萬難を排して結婚する段までいった。二人の結婚の行列は、街々にしかれたバリケードを反乱軍の兵に助けられて踏み越え、当時フランクがオルガンを弾いていたノートルダム・ド・ロレット寺院に向かった。
 それからの二十数年は全く外的には平凡な、内的には苦難と努力の時代であった。
われわれ史的な好奇心しかないものは、直ちに1870年に移らねばらぬ。1870年は普仏戦争の年で、フランス国民の忘るべからざる年である。或る晩、ダンディ等数人の弟子がパリの町を歩いてフランクを訪れた。彼は『フイガロ』紙の政治欄を開いて興奮していた。そしてそこにある「我は巴里、都の女王」云々という散文に作曲し、直ちに愛国歌を作った。これはこの隠棲(世間からは馴れてひっそりとくらすこと)の楽人として珍しい逸話である。1872年音楽学校のオルガン教授に任命された。即ち世間からはまだ作曲家として認められていなかった訳である。しかしこのころから彼の作品は俄然円熟を示した。1870年前後に交響楽詩「贖罪」第一及び第二、オラトリオ「至福」を書いたのを手始めに、前述の七曲その他の傑作を、以後1890年に死ぬまでの二十年間に続々と書いた。

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あのころは 息子をピアニストにしょうと親は結構がんばるんですね。フランクの場合 その父親のやり方と本人とはすこしちがっていたとはいえ、ピアノなどを習わせてもらい教会などでひけるようになっている。

こういうことはその後の役にたったでしょうね。オルガンをあっという間にやめたわたしは 振り返ってそう思います。
フランクの結婚の話も興味深いですね。二月革命のまっただなか結婚の行列は、街々にひかれたバリケードを反乱軍の兵に助けられて 踏み越え教会にむかったんですね。あれ!1848年の二月革命 わたしの「日本史 世界史」の本にのってない!「反乱軍に花婿花嫁は助けられて」なんてどういう光景やったんやろ。「こんなときに なにやってんだよー」なんてことじゃなくてね、いいですね。その反乱軍の中に友達がいたとか。ストップ!

普仏戦争もあったんですね。ドイツがフランスに攻め入り 撃破 「ドイツ帝国」を誕生。ヨーロッパはそのころからたえず戦争をしていたんですね。彼はベルギーで生まれていますがフランスで演奏活動をしていたから フランスを思って「愛国歌」をつくったんですかね。1870年代は フランクはまだ音楽家としてあまり認められていなかったんですね。
リストはそのころははなやかにやってたんですね。
フランクの奥さんは女優で恋愛の末結婚したんですね。どんな人だったのかな。

わたしは 音楽家の歴史など このホームページをやりだしてから 少し知ったとはいえ
リストとか何度も出てきた音楽家をめじるしにして フランクという人がどこらへんにいたのか わかろうとしています。
二月革命も普仏戦争もその時は大変な事だったでしょう。いまという時から見ると歴史の一つ。フランクという音楽家から そのころを知る事ができるというのは わたしにはすごいことです。

さいならさいなら


《 2016.06.10 Fri  _  1ぺーじ 》