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にぎやかな姉妹 NEKO美術館発

わたしたちが 生きている間に出合った花 植物たち。
いい加減な思い出し方だけど 打ってみよう。
バラやテッセン その色にこだわったな 父は。
めずらしいのを旅先で見つけると はまゆうとか これは北海道から大事そうに持って帰って来た。タネを持って帰って来たのか覚えていない。その花が咲いて初めて聞いたその名前を覚えているわけ。
庭は道行く人がみえるところにあって チューリップやヒヤシンスが円形になって咲くとなんか自慢したい気分だったな。
気難しい顔をしていた10代のわたしだったけど そう思っていた。 
百日草は畑の隅っこに咲いていた。お墓に行く時に持って行く花に家ではなっていた。大した花じゃないと 思っていた。いつまでも色あせず咲いているから 丈夫なもったいなくない 美人とはいえない花だと まあ言葉で表せばそういう花だった。「百日草 百日も持つのかしら」なんてね。
ダリアはあのころどこにでもあった。ポンポンダリアが庶民 でっかいのが「ええっと」「おおオバサン」くらいかな。
しかし バラはとくにきいろとか変わった色だと その「名札」がばっちのように誇らしくつけたままになっていて 父は虫がついてないかめがねをずらして たしかめていたな。
椿の木はうらにあって お便所の窓から見えた。「すぐ会いに行かなくちゃ」 と思わせるところがあった。木の根本に大きくえんを描くように あかとしろのまじったその花はおちていた。木に咲いているところより足もとのその椿が思いだされるのはどうしてかな?
さざんかは 寒い雪とともにあったような気がする。
色のあるものは真っ白い雪の季節には南天か このさざんか。
うちの家は 父の手がいっぱい入っていた。 壁だけ見てると「イタリアの小さな村」(テレビでいつも見ている)のようだった。素人の父がぬるからまっ平じゃなくてね。
入り口の小屋は温室。前からあった農具入れの小屋を改造したのだ。その中には何があったのかなぁ。
でもアーチ形のテッセンの入り口があった。いまでは よく見かけるけれども、50年程前だと 田舎では珍しかったと思う。さしあたりお屋敷にふさわしい庭風景だったけれど実はふさわしくなかったな。 瓦も古くなっていた。あわびやビー玉のぬりこめられた 「おもちゃやしき」のようだった。

父が病気して 数カ月で亡くなった時 それは71歳だったんだけど 3月に白いさざんかの花が咲いた。それは子どもの頃よく見たピンクのありふれたのじゃなくて それはきれいな白だった。植えてそんなにたっていなかったと思う。まだ背が低かった。
泣いてしまった。

幼稚園のときからの親友が数年前病気でなくなった。
手紙のやり取りは結構あったけど しゃべったのは高校卒業以来 数える程。
病気がわかってから 電話をすると「花を植えな。」「今こんな花が咲いとんやで」と花の名前をいってた。61歳で散ってしまったな。

母とはこの信州で4年程いっしょにくらした。そのころこの家はできたばかりで 庭には花も木もたいしてなかった。いまも草の方ががぜん多いけど 大きな家になのに庭木が育ってないから なんかさまになってなかった。
それで向日葵を植えた。母はそのそばで洗濯ものをほしていた。ふとんも天気がよければ干したがった。
子どもの頃はたよりになる堂々とした母だったけど せながまるくなって ちぢんでいた。大きく堂々としている向日葵のよこで小さくなった母が洗濯物を干していた。
わたしは 冗談で向日葵が大きくなるたびに葉っぱを手に見立てて握手した。「おはよう」とかなんとかいいながら。するとみあげるほど大きくなって でかい花が咲いた。
タネがびっしりはいっていて 重たそうだった。一番よく握手したのが一番大きく背が伸びた。「握手は通じたんや」とその時思った。
義父とも一緒に暮らしたから 8人で暮らし始めた頃だった。
記念写真が残っている。

そうそうこの写真の花はどちらさんかしら いっこうに思い出せない

これぐらい
《 2016.06.10 Fri  _  思い出 》