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書きたいなぁ

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縄文土器の紋様そのものも、詩的ですか  宋 左近 詩人 サライインタヴュー
1993

たとえば、円筒下層式という前4000年頃の土器。縄文の紋様が、ちょうど川の波に砕ける夜の月とか、草むらを吹き過ぎるそよかぜと言う趣で、きざみこまれています。これに限らず、すべての縄文土器はこの静と、独特の動の力学が合わさっている。静は死、動は生です。その静と動がふたつの中心となって楕円運動を起こし、螺旋となって天に向かって登っていってる。僕はこれを、天空への螺旋上昇つり上げられ運動と読んでいます。円と渦。ゴッホやガウディと同じです。日常を破壊して非日常に行く。すさまじい芸術だと思いますね。

***

そのとおりだと 感じていること。どうにかして書きたいなぁ。
我が家での連休は東京からの一家が帰っておしまい。

さて、「この縄文の紋様が、ちょうど川の波に砕ける夜の月とか、草むらを吹き過ぎるそよ風という趣で刻みこまれている」私はこのところを読んでみるまで このような土器に関して あまり関心がなかったのです。 
「静と独特の動の力学が合わさっている」
「その静と動がふたつの中心となって楕円運動を起こし、螺旋となって天に向かって登って行っている」

ここのところが 興味深いのです。
かって自分が表現することで 進化しているということを どんなふうに 説明してみたいのか考えたことがあるのです。
たとえば ひとつのことを掘り下げているとは いえない。
では まっすぐ上昇しているとも いえない。

ひとつのことを 夢中になって頂点にまで登りかけた時 ふーっとすきま風がやってくるのです。それはとってもがっかりすることなんですが いくら進もうとしてもそれ以上の興味がうせているのです。
しかたなく ほかのところに 少しずつ移る。そのうちそれにどんどん夢中になって どこまでも行けそうな気がする。世界中に「わたしはやったわよ」 ぐらいなことを叫び出したくなる。しかし頂点にはいかない。すきま風がやってくるから。
そしてつぎにその前にやったことにもどって やりはじめたときには 1からではなく 少し進化している私がいて それは螺旋のように登っていってることが解る。


 続いていく。そのようにして。それはまっすぐのぼっていくより ふくらみがあって いいと思うのでした。

この動きが 宋さんがいわれた動きと少しつながるようで いってみたかったのです。
ゴッホの糸杉や空のうねりは 螺旋です。

私が螺旋ということばを使ったのは ちょっと違うのかもしれませんけど 縄文の紋様には 詩的なかくされた(知らない人には)リズムがあるのかもしれません。

競争して勝ち抜くためには まっすぐ上昇しなければ勝てません。(勝手な想像ですが)
螺旋には詩がある。ゆっくり上昇する中でいろんな事にであって 小さな発見もあって それは豊かだったと。縄文の1万年間は「祈りの時代」ですか。人間を越える巨きな存在に取り憑かれて「魂」になることですか。魂が次の人間に取り憑く。では、そうしてまで翡翠を運ぶ縄文の魂というのは何だったのか。

何だったんですかね。歴史の中で 滅びてしまったかのように見えること。
しかし 「魂」のことだから 実は滅んでなんかいなかったのかもしれませんね。

「ひえー」ここらへんはわたしの螺旋とは巨きさが違いすぎますが。

偶然開いたこのページ。「すさまじい芸術だ」と 縄文の紋様のことを そういう 宋さん。ん?「ゴッホやガウディと同じで、日常を破壊して非日常に行く?」

どっかずれてしまったようですが どっかつながっていたいなぁ

さいならさいなら 

《 2016.05.06 Fri  _  オブジェ 》