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シューベルト

『音楽と文化』川上徹太郎著 創元社 昭和13年続きです。

シューベルト

 1824年に友人のクーペルウイゼルに宛てた手紙を見よう。
 
 一言でいえば僕はこの世で最も不幸な哀れな人間だと思う。取りかえしがつかぬほど健康が衰えてしまって、その絶望の中にぢりぢり落ち込んでゆく人間のことを考えて見てくれたまえ。輝かしい希望が虚無に変わり、恋愛や友情が最もひどい苦痛にしか感じられなくなった男。美しいものに対する感興が消えてしまった男。こんな人間を君はみじめで不幸だとは思わないか。「わが憩いは去った。心は重い。もはや永久にそれを呼び戻すことはできないだろう。」私は終日こんなことを歌っていなければならない、夜ねる時私はもはや眼がさめないことを望む...

  彼の青春はもはや遠くに去ってしまっていた。この痛々しい手紙を彼は27歳の時にかいているのだ。この時彼はもはや長く生きられぬ事を悟っていたのであろう。しかしながら創作力は依然として衰えてはいない。「放浪者の夜の歌」「水車小屋の美しい娘」「イ短調ピアノ・ソナタ」「変ロ長調ピアノ三重奏曲」などその前後二三年の間に作られたもので、今日シューベルトを愛する人たちで知らぬものはない曲である。
 1827年にベートーベンが死んだ。シューベルトは彼の作品に心酔しながら、一度くらい会ったまま遂にその門をたたくこともしなかったが、その葬式のときは喪服を着て蝋燭を持って棺の側について墓場まで行った。そしてその帰りには酒場によってこの大家の冥福のために杯をあげたという。
 その頃彼自身もはやひどく健康を損ねてしまった。そしてそのすりへらされた肉体をもって最後の労作にふけっていた。ある日シュウパンが(ショパンが?)彼を訪ねた時、「彼の顔はほてり、眼は燃え、あらぬ言葉を口走り」ながら仕事に向かっていた。彼は「冬の旅」を作曲していたのである。
 1828年10月の末に発病して11月19日に死んだ。死ぬ少し前にシューベルトは、ここは地下だから地上につれていってくれ、と言った。兄がここは地上だと言っても、「いや、いや、ここにはベートーヴェンはいない」と言った。そして、壁をさして、「ここが私の終りだ」と言ったのが最後の言葉であった。
 あの美しいハ長調の交響曲は最後の一年間に作曲されたものである。

***

シューベルトのことをRosemary Beownの本で見てみようと思ったらその本が見つからない!
それにしても 友達のところを渡り歩く生活 若い人がそういうことをしてたら 健康をそこねますよね。音楽のことばっかりで。などと もう私はシューベルトの親のような気分になってますよね(笑)かといってあの家を飛び出して 作曲ができたのかもしれないし。といいながら本の行方を探しています。おーい。このまえシューベルトの曲を夫のタブレットやらで聞かしてもらったんですが これらは調子のいい頃のかなあ それともわるくなってからかなあ。いや彼は自分のスタイルからぬけだせなかったんかも。明るい健康的なスタイル。CDからシューベルトを探そうと思ってみていくとバッハやリストやべートーベンやブラームスやシューマンは出てきたけれどもシューベルトが...  あのね 聴きたい時に聴くのがわたしみたいなのには一番なんだけど。たしかシューベルトはRosemary Brownは褒めてましたよねえ。優しいしハンサムだし いい人おらんかったんかいなあ。いや女は家をもたない男というと 二の足を踏む(こう書くの?)  友達も最初のうちは歓迎してくれたかも知れんけど そう長くは いやそうなると 今更家に帰るといってもなあ 意地もあるし またよけいなことを。
「わが憩いは去った」「輝かしい希望が虚無に変わり」「恋愛や友情が最もひどい苦痛にしか感じられなくなったしまった男」「美しいものにたいする感興が消えてしまった男」これはつらいなあ。「冬の旅」はどんな感じやろ。31歳?
シューベルトはこれでおしまい

さいならさいなら
《 2016.03.17 Thu  _  1ぺーじ 》