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ピカソのゲルニカ

ピカソ

ピカソの「ゲルニカ」はあまりにも有名ですが いったいゲルニカというスペインバスク地方で何があったのか。新聞の「100人の20世紀」というところにこういうことが書いてありました。

 1937年四月二十六日、スペイン・バスク地方の古都ゲルニカは恒例の月曜日だった。道路や広場は近在の農民が運んだ野菜や果実、乳製品を商う露天でにぎわっていた。
 夕方近く、サンタ・マリア教会の鐘が鳴りひびいた。それが空襲警報だと気づいた次の瞬間、建物が、そして人間が吹き飛んだ。
 前年、フランコ将軍の反乱でスペイン市民戦争が始まっていた。そのフランコ軍を支援するドイツ軍の爆撃機三十数機が、三時間にわたって爆撃と機銃掃射を繰り返した。人口五千人の町で、名前が分っているだけで百二十六人が殺された。 町に住む画家のルイス・エリオンドさん(67)は、当時十四歳だった。学校は閉鎖され、町にある銀行で働いていた。他の町から来ていた支店長が鐘の音を不安がったので、近くの広場の一角にある防空壕に案内した。直後に爆撃が始まった。「爆撃が破裂する音が回廊にこだまして雷鳴のようでした。壕の中は人々がいっぱいで身動きできず、窒息しそうになりました。爆弾で死んだ方がましだと思い、入り口にはっていきました」 十歳の弟は、駅の近くで遊んでいたところを敵機に襲われた。 「近くにいた民兵の一人が弟を抱きかかえ、草むらに押し倒したのだそうです。同時に爆弾が破裂した。兵士の体は消えて、腕だけが弟の背中に乗っていました」
 弟はその後サッカー選手として活躍した。しかし二十八歳の時、がんで死んだ。
「弟は雷や飛行機の音にいつもおびえていました。そのストレスが病気を生んだのではないか。私はそう思っています」

五十五歳のパブロ・ピカソは、そのときパリの自宅で悩んでいた。 スペイン共和国政府は、この年五月からパリでひらかれる万国博で、スペイン館を飾る作品をピカソに依頼していた。ピカソは快諾し、展示場所の寸法に合わせた縦三、五メートル、横七、八メートルの大キャンバスをアトリエに立てた。 しかし構想が決まらない。数カ月が無意に過ぎていった。 そんなある朝、新聞を見て、がく然とする。英タイムス記者の特電で、ゲルニカの惨状が報じられていたのだ。彼は絵筆をつかんだ。 号泣する女、ひん死の兵士、腹を裂かれた馬が、ゆがみねじれた形態で描かれていた。二十年前に放り出したままにしていたキュビズムの手法だった。
 一カ月後、白黒の淡彩調の作品が完成した。「ゲルニカ」である。
 見方によれば醜悪で、美の破壊のようでもあった。だから彼からすれば、「よく知っている」からこその破壊だったのです。

***

ピカソは二十代の終わり、キュビズムの旗手になって、それは放り出したままにしていた。ここのところは「そうだったの?」と思いつつ。 ピカソはかっていっていましたね。彼自分はキュビズムという手法を発明したのではなく 自然に内面が出てきたのだと。
この「ゲルニカ」のいきさつを読みました。フランコ将軍はドイツ軍と組んでバスク地方の古都ゲルニカを爆撃したーーということはスペインには内乱がおこっていたんですね。そしてバスク地方はフランコとドイツにとっては不都合なところであったわけなんですね。
ピカソは政治的なことにあまり関心がなかったのですが このゲルニカがドイツによって爆撃されてから変わったそうです。スペインのフランコ将軍はファシスト政権だった。そしてナチ政権と一緒になってゲルニカを無差別攻撃した。スペインはいくつかの地方に別れていて、政治的にも複雑だったが、当時カタルーニャとバスクの両自治政府は共和国政府を支援していた。
ゲルニカをテーマとすることに決めてからのピカソの制作ぶりは、嵐のようだったといいます。ほぼ1カ月で、一気呵成に描かれたのでした。
作品を実際前にすると この桁外れの芸術家を突き動かしたそんなにまでに激しい感情(怒り、憎しみ、悲しみ)に圧倒されるといいます。
 なお「ゲルニカ」は、パリ万博のあと欧米各国を巡回し、反ファシスト政権に貢献したのち、「スペインに真に民主的な政権が樹立されるまで」という条件付きで長らくニューヨーク近代美術館に寄託されていたそうです。そしてピカソが没し、フランコが没した後の1981年9月10日スペインに返還され、ピカソが望んでいたマドリードのプラド美術館に入りました。(現在はマドリードのレイナ・ソフィア国立美術センターに寄託中)
キュビズムはこのように20世紀の破壊の時代を反映していたというわけですね

さいならさいなら
《 2016.03.19 Sat  _  1ぺーじ 》