『コレクション 瀧口修造』1991 みすず書房の続きです。
私も描く
私の頭のなかには、いわば他人の絵がいっぱいつまっている。私は美術評論家連盟の一員である。私がもし絵を描こうとすれば、どんな絵を描くだろう?こんな問いが私自身のなかにもないわけではない。しかしすくなくとも私がこんなことをはじめたそもそもの動機には、「絵を描いてみる」とか、まして画家になりたいとかいったことは寸分もなかった。もしそんな気持ちが少しでもあれば、私は混乱してなにもつづけられなかったにちがいない。私のこの文章のなかでも書くと描くという用語が不分明のまま使われていると思うのだが、もはや私は絵らしいものを描いているのだから、これを絵ではないという言い逃れをしようとは思わない。しかし私はどこまでも動機を尊重したい。というよりも、私のデッサンにすこしでも取り柄があるとすれば、動機だけだといえるようになりたいのである。デッサンの衝動が現れるとき、それを直接にとらえることが私には重要なのである。しかも私はそうした行動にできるだけ自由をあたえたい。ことに批評家というレッテルのために左右されまいとしている。私もすべての人間のようにデッサンをする手をもっているという単純な事実をまず率直に確認したいと思う。もっとも、このような配慮は私がデッサンをする場合に何も問題になっていないので、すべてあとからの付けたしである。
ところで私は昨年十月に「私の画帖から」という、小展覧会を催したのである。そしてはじめて「画帖」から数十枚を切り取って他人に手渡したのだが、展覧会というものにさらしてみてはじめて「描く」ということの別な意味がわかりかけてきた。この小さな紙きれに私 というものがうずくまったり、蓮っ葉にはね返ったりしているではないか。そして同時に「批評家」という職名が私をぐいぐい押しつけてくる。私は押し返すが、こいつはたまらないというところである。だが私はそんなものはすべて妄念であるとはねつけようとしている。この可憐な紙きれが世間に船出をする。あれらはリトマス試験紙のように青くなったり赤くなったりしているのではないか。
先日サム・フランシスは私の「作品」を見るなり「自画像!」といったものである。
この簡潔な標語。それは私自身よりもよくなければ、わるくもないという意味にもとれるだろう。分厚い絵画の壁が私の前にひしめいている。臆せず手を動かそう。前進しよう。行動の自由。ごく小さな行動でも「自由」が必要である。
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私の頭のなかには、いわば他人の絵がいっぱいつまっている。
瀧口さんはそういう。瀧口さんは他人の作品を見る仕事なのだ。そんな人が自ら描く立場になる。そしてそのデッサンにすこしでも取り柄があるとしたら
ーー「動機だけだ」といえるようになりたい。デッサンの衝動が現れるとき、それを直接にとらえることが私には重要である。しかも私はそうした行動にできるだけ自由をあたえたい。ーー
ーー展覧会というものにさらしてみてはじめて「描く」ということの別な意味がわかりかけてきた。この小さな紙きれに私というものがうずくまったり、蓮っ葉にはね返ったりしてるではないか。そして同時に「批評家」という職名が私をぐいぐい押しつけてくる。私は押し返すが、こいつは堪らない。だが私はそんなものはすべて妄念であるとはねつけようとしている。この可憐な紙きれが世間に船出をする。リトマス試験紙のように青くなったり赤くなったりしているのではないか。ーー
瀧口さんの率直な表現のまえに立ちはだかるものは これは見る側の人のこと?
サム・フランシスは瀧口さんの作品をみて「自画像!」といった。
いいなあ。私もずいぶんたくさんの写真や絵を「自画像」にしたことがある。
臆せず手を動かそう。行動の自由。極小さな行動でも「自由」が必要である。
なんか瀧口さん新鮮やったんやろなあ 表現の入り口!