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ピカソ

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『ピカソ芸術の出発とその背景』植村鷹千代 世界の美術 ピカソ 河出書房 1963
の続きです。

上の絵は<坐せる女>です。これも世界の美術からのものです。

 ピカソ芸術の出発とその背景

 この記述はなるほどと肯かせる点が多い。ピカソは19歳でパリに出たが、それ以後まれに、しかもごく短期間だけスペインに帰ったのみで、その生涯をパリですごすことになったのであるが、ピカソは環境からの影響に実に敏感であり、その影響の受け方が徹底していた。つまり、彼は一つの影響を徹底的にうけることによって、画風がガラリとかわるのである。ピカソのはげしいカメレオン的変貌はその結果であるが、これは、ピカソの精神と感覚が徹底して素直で、鋭敏で、柔軟であったことを実証するものであろう。スタイン女史の言葉にしたがうと、彼自身を百パーセント完全に虚しくすることであった。この独特の資質は天才と称すべきものであるかもしれないが、20世紀の分裂と変転のきわまりない歴史の歩みを的確に表現するのに必要な資質であり、才能であったというべきであろう。
 彼の最初のパリ時代はロートレック時代といわれ、ロートレックの影響を特に強く受けた時期であるが、ピカソ自身もいうように、ロートレックの、文学的な要素にひかれた点が強いらしい。彼のパリ時代を通じて親しい友人は、マックス・ジャコブ、ギョーム、アポリネール、アンドレ・サルモン、ジャン・コクトーといった文学者連中が主で、画家ではブラックとドランぐらいだった。これは、ピカソが同時代の画家から教わる必要を感じなかったためで、ブラックやドランとの交友は、この二人の画家がとくに文学者的な資質を備えていたためのようである。

***

キャー また上の絵ははずれ。ロートレック風じゃなくちゃ。
 さて「彼自身を百パーセント完全に虚しくする」ガートルード・スタインのピカソ評ですが その言葉が百パーセント理解できないでいる私ですが(笑)つまりなんですか 「これが私だ ピカソだ」ということをゼロにするということなのかしら。ちゃうなあ ピカソの描いていることを虚しくするということなんですよね。ピカソは強烈に他の影響をうけてしまっている。しかしのぼせているうちに はったすきま風にようなものが吹いて来る。これは虚しいんですよきっと。ロートレックは彼の表現をあんなに深くやりきったという尊敬の念が ぐっとピカソの背中を押すんじゃないかな。太刀打ちできないというのか。ピカソの発見を感じたのはやはりキュビズムなのかなぁ。それでも他のに影響を受けると走る。ピカソはじつは虚しくならないために 走り続けていたのかも知れない。
などと ゆるぎない他者から見たピカソ像は どのように生きていたのか 勝手に推理ははじまるのでした。
積み上げてきた物があったとしてもガチャンとひっくりかえしてゼロにしてロートレックの影響を受ける。すごい癖ですね。しかしロートレックの次に強くピカソに影響を与えるのがいたら そのとうりにする。植村さんは これを「素直で、鋭敏で、柔軟であったことを実証するものであろう」といっていますね。ふむ たしかにそうかもしれないですね。 私は十代の時に ピカソをどう見ていたかと言うと このなかの 「柔軟」に惹かれました。 ピカソはあくまでもどんな影響をうけようとも ピカソがうけるのであって(ここまでは気づいてませんでした)ピカソのスタイルをセメントのように固めることはないようでしたね。 私は十代の頃 それは「変化可能」とうけとりました。
「でも徹底して他に影響を受けることはいけないことよ」 と思っていましたね。ゴッホに影響をうけてしまったことを罪悪のように思っていました。それとひとところにとどまらずに チョウのようにあっちゃ飛びこちゃ飛びするのが ピカソ流だと信じていました。おかげさまで 私は定住の地をもたないふうになってしまったというわけです。よみがあさかったのかなぁ。
 ピカソが影響をうけたのは 相手の文学的要素だったんですね。 そうだったんだ。青の時代なんてまさに。でもキュビズム辺りはどうなんです?

音楽家でも ドビュッシーなんかは音楽仲間だけにとどまらず文学をやる人たちのサロンに出入りしていたそうですね。

つまり、彼は一つの影響を徹底的にうけることによって、ガラリと画風がかわるのである。ピカソのカメレオン的変貌はその結果であるが.....

さいならさいなら






《 2016.02.20 Sat  _  1ぺーじ 》