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ピカソとその周辺

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『ピカソとその周辺』フェルナンド・オリヴィエ著 佐藤義詮訳
上は昭和41年の「太陽」平凡社 木内  克 パリの思い出の一部分です。

ピカソ裕福となる

 彼は午後二時から、できればもっと早くから、新しい画室に閉じ籠って、日没まで仕事を続けた。冬は火加減を見るため以外には、誰もそこに入らなかった。
 二、三カ月目ごとに、彼は作品と小さな飾り物類を整理して、それを大きな箪笥にしまい、何も動かさないという条件で、画室のほぼ全体を掃除することをやっと許すのだった。
 彼は散歩のついでに家具やいろんな物を買って来たので、すでに一杯になっていた画室は、遂には足の踏み場もなくなってしまった。ある朝、金の締めボタンの付いた紫色のビロードの、ルイ・フィリップ風の素晴らしい大きな寝椅子をかついで、身を屈めた男を従えて、彼が嬉しそうにして帰って来た時のことを思い出す。
 またある時は、椅子張りの綴織の色があせて、糸目の出ている炉辺椅子型の低い古腰掛けが画室の最上の場所を占めた。
 壁は色々に飾られ、古い壁掛けやアフリカ黒人の面や種々の楽器が、コローの美しい婦人像の小品と隣合っていた。
 卓上には、彼が数年前から蒐集し始めた「黒人の木彫」が置いてあった。アフリカ黒人彫刻の芸術的価値の将来性を発見したのは、最初にマチスで、つぎがドランだったと思う。ピカソもこれの熱狂的な愛好者になり、アフリカ各地の立像や面や呪物(じゅぶつ)が彼の家に蓄積された。黒人の作品を買いあさることが、彼には本当の楽しみになった。首飾り、腕環、ガラス玉の腰紐(こしひも)といった装身具と一緒に、実に惚れぼれするようなものがあったが、芸術家の妻君たちは自分たちを飾ろうと思って、その中から装身具を持ち去ったものだ。
 ピカソは特に女の小形の面が好きだったが、顔の白絵の具が頭髪の木の色とくっきりと対照して、不思議に優雅な表情をしている面だった。
 それに、その頃はピカソ、ブラック、ドラン、ヴラマンク、マチスなどのうち、誰が黒人の最も美しい作品を発見するだろうかということが噂されていた。黒人芸術は、彼らの芸術的成長に大いに役立ったのである。

***

ピカソ、ブラック、ドラン、ヴラマンク、マチスたちが黒人がつくった彫刻をほしがったんですね。彫刻は平面じゃない 絵の中にそういうものがあらわれる そういうところだったんですかね。モジリアーニは黒人彫刻に惹かれたと思うんですけど それはシンプルで首の長いところだったのかな。もしそうだとしたら キュビズムとはまたちがいますね。(あのう、これは何も知らないわたしが言っていることですから なんともいえませんが)
ゴッホは日本の浮世絵に刺激を受けていましたね。私たちも外国の文化に影響を受けますが この芸術家たちにとってもそうだったんでしょうね。そして新しいものが生まれるきっかけになったり。影響を受けることと 発見のきっかけになるということは ま いいか。

しかしピカソの「髪をくしけずる裸婦」とか「アヴィニヨンの娘たち」などは「キュビズムに女を使うなよ」と言いたくなりませんか(笑)
パーツにわけて なおかつ平面の上に後ろから見た物も 横から見た物もおいて それからどうするんでしたっけ?それをやるとどういう便利なというか いいことがあるんです?
新しいこと?

ピカソたちの中に入って 噛み合ない会話 してみたかったなあ

さいならさいなら
《 2016.02.13 Sat  _  ちまたの芸術論 》