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ピカソとその周辺

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『ピカソとその周辺』フェルナンド・オリヴィエ著 佐藤義詮訳の続きです。
写真はEdward  Quinn  La sigunature de Picasso  です。

1910年ー1914年
  クリシー大通りと画室

 1909年に、一そう裕福になったピカソは、それまで一つは仕事専用に、もう一つは日常生活用に、二つのアトリエを占めていた。あのなじみ深い「洗濯船」を離れて、移転しようと考えた。
 彼がそれを決心したのは、スペインで四カ月を送り、アラゴンの旅から帰った時のことである。ラヴィニャン街のこの家には、彼の生涯で最も美しい思い出の数々を残したのだから、彼は後ろ髪を引かれる思いだった。そして彼はそのことを強く感じていた。こうしてその小さな家に別れた彼は、ピガル広場近くのクリシー大通り十一番地、デルカッセの持家のアパルトマンに移った。そこにはデルカッセ自身も住んでいた。北側にある大きな画室と、それに付属して南側にあるアパルトマンとを借りたのだった。その窓からは、美しいフロショー並木道の樹木が眺められた。少なくとも物質的状態では、従来とは多少違った生活が始まった。
 家具を買わねばならなかった。元のアトリエからは、画布と画架と書物など以外には運んで来るような大きな物はなかった。彼はそこで、数年間というものはキャンプ生活をしていたようなもので、雰囲気を楽しくするためなら相当お金を使ったこともあったが、それで生活が便利に安楽になるようなものは何一つ買ったことはなかった。私たちは旅行用の行李の上で寝ていたが、それに脚を付けるなどついぞ考えたこともなかった。丸テーブルは、食事が終わると、折り畳んで片隅にかたづけた。胡桃染料を塗った白木の箪笥一個で、下着類を入れて置くには充分過ぎるほどだった。
 ラヴィニャン街のアトリエから持ち越した物は、クリシー大通りの女中部屋用の家具として約に立った。ラヴィニャン街に住んでいた終わりの頃は、ピカソはすでにかなりの収入を得ていたのだが、アトリエを飾る家具を買おうなどと考えたことは一度もなかった。それでも一時、一方のアトリエが見たところ前より気持ちがよさそうになったことがあったが、それはヴァン・ドンゲンがかなり長くオランダに滞在していた間、幾つかの家具をピカソの家に預けておいたお陰だった。
 成功した芸術家は、彼らの青春時代を懐かしがるものだと言われている。これは疑う余地のないことだ。貧しい生活をした場所に、彼らがもっていた最もよいものを残して来たのだ。第一に青春、確かに一生で最もうらやむべく、最も貴重な青春を。芸術家は老いることを嫌う。困窮とともに、彼らは純粋な熱烈なあるものを置き去りにし、後になって空しくそれを再び見出そうとする。

***

1909年にあのラヴィニャン街の「洗濯船」を出てピガル広場近くのデルカッセの持ち家のアパートに移るとあります。スペインで4カ月の旅、アラゴンの旅から帰ってからのことです。長い旅でそう決心したのですね。ピカソは青春の思い出をおいて 新たに踏み出したのですね。新しい場所に移っても生活を便利にしようとか、家具をふやそうというようなことはなかったと書いています。オリヴィエはあの貧困時代に青春のすべてを置いいて来たのだと言っています。
「芸術家は老いることを嫌う」、そうなんですね。「純粋な熱烈なあるものを置き去りにし」、なるほどピカソはその後名声を得て そういうことを強烈に思ったんでしょうか。それともこれはオリヴィエがピカソを見ての思いかも知れない。ピカソはいつごろ芸術家として先頭におどりでたんでしょうか。もうめざすものはないぐらいの。
でも ピカソはもっと違う感じで 老いることを嫌ったんかな。上の写真を見ても 肉体をピカピカに(笑)見せてる。まいいか。

ここでオリヴィエがいいたかったのは きっとピカソの家は広くなって女中さんも住まわせたけど やっぱり「作品を生み出すことしか頭にないんよ 彼は」 ってことなのかも。オリヴィエはいい人ですね。その後のピカソを知るたびに かけがいのない青春をおくったという 熱い思いは オリヴィエのなかにしっかり残ったと思います。われわれがこうして読んでても オリヴィエの青春はすごい!

さいならさいなら


《 2016.01.22 Fri  _  1ぺーじ 》