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おたより

美保関のしーちゃんからのおたよりです。

 父の事を知ろうと思ったのは 母が父の悪口を繰り返し繰り返し云うようになったので(母もかなり年を取ってきました) 死人に口なしで 一方通行の様子なんです。
母も子供は自分ひとりの子供とでも思ってるのか...

父は戦争の事も何も悪い事は云いませんでした。自分がこれでもかと思う位の目にあってるのに。
家が倒産 戦争では負傷 家は空襲にあい 裸一貫になった人です。
それでも私たちは何も無かったように育ったような気がします。
倒産の後始末もしたようで 私が大きくなった時に四国からお金を返しに来られた人が一人だったといいます。祖母は「人にお金を貸して 自分(お父さんの事)は借金に沈んでる」とまるでひとごとのように云っていました。 屋根裏部屋に借用書の箱があり 私たちの知っている人の名前もいっぱいありました。その人たちから返してもらう事もなく わたしたちのこより作りの紙になってしまいました。
借用書の証文を取り返しに行ったのもボチボチだったそうで 父は取引の様子を話していました。

空襲にあった家の事も 建てる様子を母が身振り手振りで熱演してくれました。
「体を動かして働くだけでも家は建つのだなあ」と感心して母の話を聞いていました。
家が建つ時 母の懐にいて 嬉しかった事は目に焼きついています。
自分が小さい時の事 これがいちばん最初だったのかも。妹は生まれていたかな? 

***

しーちゃんおたよりの続きです ありがとうございます。
お父さんは戦争に行って負傷して 空襲にもあい 家は倒産 大変でしたね。
私たちは戦後生まれですが それでも 戦争の傷跡は 今思い出すと とても貧しい親子がいたなあとか 神戸に出れば(兵庫県の田舎から) 傷痍軍人の姿などを見かけました。

お父さんにお金を借りにきた人たちは どういう人たちだったのですか?
戦争でなにもかもなくして 借金をしたのかしら。
そんな人たちにお金を貸した気のいいお父さん しーちゃんは今どう思っていますか?
私の父もそうですが 酒にはのまれるし ひとがいいし 母はしっかりしていて なんとかもってるというような だけど母がいうような 頼りない所がある人だけではなかったのかもとこの頃思います。
しーちゃんのお父さんだって もっといろんなところがある人だったんでしょうね。郵便配達を何年も続けて その仕事でその地方の昔話などをよく知っていたりね。

戦後 人々は食べるもののことでもお金の事でも むきだしのひどいところがあったんじゃないでしょうか。
父の学生時代はもっと音楽や絵にたのしいことがあって 結婚して長男が生まれた頃には子供にももっとやさしかったのかもしれません。長兄が子どものころの話をする時 そう思うんです。

しーちゃんの家が建ったときは ほんとにうれしかったんでしょうね。自分たちの家 家族そろってゆっくり出来る場所ですからね。家はどっかの大工さんだけが建てるように思っていますが しーちゃんところは みんなして建てたのですか?

つづきはまたね
《 2015.12.16 Wed  _  おたより 》