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ドビュッシー

『音楽と文化』河上徹太郎 創元社 昭和13年の続きです。

ドビュッシー

 次に彼の音楽は印象主義の絵画に擬せられる。これも正しい印象主義の観念の下では写実である。つまり絵画における印象主義の真諦(しんてい)には絵画に従来の単なる視覚的な造型主義ではあきたらず、厳密な科学主義による外界の再現を企画するものであることは周知の原理である。ドビュッシーの印象主義も、そのやや初期のピアノ曲に見られる如く、「雨の庭」だとか「月の光」だとかいう絵画的な情景を描写したものの中にその典型が見られる。かかる標題楽的な意味とは別に音の総体的な感覚によって対象を直接に再現しようとしていることは、先に述べた象徴主義的理論と同じく音楽の純粋化の運動と看()し得るのである。だから早い話が標題学といってもドビュッシーのそれは従来のものと違って聴想に頼ったり、概念的に規定したりすることがない。この点をわたしは今「直接に」対象を再現すると言ったのである。例えばかれのやや後期の管弦楽曲の傑作「海」を見るにこれは「交響楽的スケッチ」と傍題されており(ぼうだい サブタイトル)「階上の夜明けより真昼まで」と「波の戯れ」と「風と海の対話」の三つの標題に別れているが、その描かんとするものはまったく海そのものであって、海の詩人におよぼす心象でもなければ海を背景とする何か劇的な動作でもない。 かかるまったく拠り所のない描写を企てる意志は、音楽の世界の中での法則や便宜を捨てた絶対純粋な境地を獲得している信念から生まれてくるのであり、印象派の画家が光学的に光の原理を把握している自信から光線そのものが描ける自信があるのとちょうど同じである。
 なお、印象派がこの原理から進んでいって遂にセザンヌの造型性に達したときに、画家は遂に美術史上のオーソドクスを形作る手法を獲得した訳であるが、ドビュッシーの印象主義は例えていえばモネやコローの外光派の城に止まっていてセザンヌの造型性まで達していない。これも先に象徴主義を論じたときに言及したと同じドビュッシーの欠陥であって、この手法でもって音楽のオーソドクスを奪取(だつしゅ)する能力のなかったことは、彼の弱々しい、あまりに知的な素質の当然の結果なのである。

***

げんみつなるかがくしゅぎによるげかいの再現をきかくする」

この私にとってむずかしすぎる文面たち しかし通り過ぎる訳にはいきません。
私ははじめに 「自分が親とも思うほど好きだった印象派たちの絵 またはそのかいわいの絵を 死ぬまでに少しはわかって 死にたい」と願っていると いいましたよね。
で、どういうわけか 私には関係なさそうな 昭和13年の古いセピア色の本を読み始めてしまい しかしそれは 音楽の印象派であったのです。
字も内容も 私には むずかしいでっせ ほんま。
それも ドビュッシーの曲もまだ聞いていない。 ぴーさんの感想が あるのみ。
そいじゃあなぜ 聞かないのか。それは私にもわからんのです。

「雨の庭」聞く前に十分想像してみよかな。想像した!(早過ぎる?)
「月の光」夜空の光るブローチや。想像した!
「音の総体的な感覚によって対象を直接に再現しようとしている。」これが耳鳴りか(自分の事ですけど)しかしこの音 直接的すぎるなあ。
そですね、モネの睡蓮の絵 朝から晩まで光を追っかけている。直接的ってこういうこと?
「概念的に規定したりすることがない」 そうですか。概念的ってどういう意味でしたっけ?直接的の向こうかな。
「交響曲的スケッチ」のサブタイトルが「海上の夜明けより真昼まで」「波の戯れ」「風と海の対話」だけどその描かんとするものはまったく海そのもの。なーるほど。
そうなのか 海そのものはその時間の感覚 波も出てくる 風もふく その変化を 直接的に追い続けた ドビュッシーの曲。それは印象派の絵そのものなんや!
だけどわからんで スーラの絵は好きかな 私は ルノアールの絵は好きだよな だからドビュッシーの絵だってわからない。

セザンヌのところにいって 完成 印象派?
そうなんですか。

「この手法で以て音楽のオーソドクスを奪取する能力のなかったことは、彼の弱々しい、あまりに知的な素質の当然の結果なのである」

「じゃかましいわい この弱々しいところがええんじゃわい」と、おもわずいってしまいそうなのはなんでやろ。先頭をきったドビュッシーがいなかったら セザンヌにたどりつけなかったのよ。(すんませんつい) 先頭はかすかなの。 そやけどドビュッシーは印象派の先頭をきった音楽家だったの? これやから私は...

さいならさいなら


《 2015.12.15 Tue  _  1ぺーじ 》