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ドビュッシー

スキャン1229.jpeg『音楽と文化』河上徹太郎著 創元社
昭和13年の続きです。

ドビュッシー

 ドビュッシーの音楽はかくして恩師マラルメの名詩「牧神の午後」や畏友ピエル・ルイスの希獵的な「ビリティスの歌」に音楽をつけたり、メーテルリンクの「ペレアス」をオペラに作ったりしたほど、象徴派の文学に接近しているが、しかも内容的にいって正しい意味で象徴派の真諦(しんてい 究極の真理)を体得しているのである。文学における象徴派の真義は、よくそれが皮相(ひそう 表面的)な意味で誤解される如く、難解な語彙や曖昧模糊とした表現を求めるところにあるのではない。それは後にヴァレリーなどが提唱した「純粋詩」という言葉が暗示しているように、言語の不明確を極度に嫌悪する精神が、言語を現実的な諸制約の一切から純粋にしようとした運動なのである。すなわち具体的にいえば、19世紀の文学の主流がリアリズムであるとすれば、この世の現実をば世の中との約束で出来上がった言葉で表現するというリアリズムの文学に対し、もっと言葉をば絶対的な明確な記号としてこの記号のみの内部世界で純粋な詩を書いてみようというのが象徴派の理論なのである。してみればこの理屈を文学の世界から音楽に移し、言葉を音と改め、リアリズムをドイツ浪漫派に倣えば(ならえば 手本として同様に扱う)、ここにドビュッシーの音楽理論が得られる。彼は音の純粋さを求め、和音の明確さを追求して、そのあげく優婉精妙(ゆうえんせいみょう しとやかで美しい事)な階調に達したのである。しかも一歩を進めいえば、純粋詩というものが結局この世では存在し得ない繊弱架空(せんじゃくかくう)なものであるごとく、ドビュッシーの清新な楽風も、革命的な新世界の発見ではあったが、真に現代の音楽を建設するだけの逞しい(たくましい)生命力を()いだものにすぎず、いはば詩人の個人的心境の点でのみ精妙な、唯美的な芸術になったのである。

***

ああむずかしいのなんのって。
近代音楽の祖とみなされているドビュッシーですが ここではメーテルリンクというなま
えが出てきましたよ。「青い鳥」でしたよね。文学者との交流があったんでしたよね。

純粋詩は表面的な言葉ではなく そうすると言葉も音に置き換えると 純粋詩になるということなんですかね。いやあ書いてあることが わたしにはもひとつわかりませんのです
はい。言葉や詩 つきつめていけば どんな形をしているんでしょうね。この世の物ではないとしたら 水木しげるさんの目玉おやじのような ひゅるーるるる こまったなあ。
象徴派とは...なんやったかなあ。絵でいくと象徴派は あとで勉強してきまーす。

いや ここに書いてありますぞ 「すなわち具体的にいえば、19世紀の文学の主流がリアリズムであるとすれば、この世の現実をば世の中との約束で出来上がった言葉で表現するというリアリズムの文学に対し、もっと言葉をば絶対的な明確な記号としてこの記号のみの内部世界で純粋な詩を書いてみようというのが象徴派の理論なのである」
えっ 徹太郎さんむずかしいでーす。
(ぴーさんからのカラーのドビュッシーです。)

さいならさいなら


《 2015.12.08 Tue  _  1ぺーじ 》