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現住所は空の下

「現住所は空の下」高木護著 未来社 1989の続きです。
私も本を読むのが楽しくなってきましたばい などと 思いつつです。

 校長先生

 父は職を転々としていたから、引っ越しもよくやった。
 わたしは小学校を八、九回転校した。勉強もできなかったが、やることものろまな上に、ろくに口も利けなかったので、まわりからは馬鹿だと思われていた。わたし自身も、ぼんくらであることがわかっていた。教科書の字や数字を見ていると、頭がヅキヅキしてきた。痛いというほどではなかったが、ズキズキの後はどろんとなってきた。いままで、空っぽで軽かったものが、鉛か鉄でも詰め込んだように重たくなってきた。
ー思かたい
と思っていると、重たかったものが、すっと消えてしまい、今度はぼんやりしてきた。そうなるまではズキズキから一、二分もかからなかった。ぼんやりしてくると、むしろ気持ちよかった。だけど、教科書の字も、黒板も見えなくなり、先生の声も、教室のざわめきも遠のき、あたりがシンとしてきて、どこか彼方から、鳥の声や虫の声が聞こえてきた。
 ー鳴きよらすとは、なんちゅう鳥じゃろうか、なんちゅう虫じゃろうか
 鳴き声のほうを見るだけではつまらないので、そちらへ歩きかけようとすると、彼方でちらっと人影が見えた。
「だれかいた」
「............」
「そこにおらすとは、だれかいた」
 だれでもよかったが、いちおう訊いてみた。
「拙者じゃ」
 人影が動いた。
「せっしゃさんかいた」
「いや、みどもは忍者使いでござる」
「うそじゃろう」
 いかなるぼんやり者でも、この世に忍術使いがいないくらいのことはわかっていた。
「きのう、お会いしたでござる」
「きのうかいた?」
 わたしは首を傾げた。忍者使いなんているはずもないし、忍術使いみたいな人と出会ったおぼえもなかった。
「本で、会ったでござろう」
「本でかいた」
「みどもはきのう、おぬしが読んだ本の主人公でござる」
「主人公というと、だれじゃろうか」
「ほら、ドロン、ドロン!のサルトビでござる」
「サルトビというと、サルトビサスケさんかいた」
 そういえば、町の本屋さんから、五銭で買ってきた『猿飛佐助』を、きのうから読みかけていた。 ドロン、ドロン!えい!と唱えて、姿を消し、悪者を片っ端から退治する物語は痛快無比で、おもしろかった。猿飛佐助の真似をして、
ードロン、ドロン!
と唱えようとしたとき、
「こら!」
 頭にゲンコツが飛んできた。
「痛かたい」
せっかくの忍術から、醒めてしまった。と、先生のこわい顔が目の前にあった。
「こいつめ!」
二つ目のゲンコツを喰らった。
「先生のいうとるこつが聞こえんごつ、またぼんやりなっとるばい。勉強ばしとうなかったら、廊下に立っとれ!」
 わたしは猫の子のように襟首を摑まれ、教室からほっぽり出された。廊下に立たされるのは毎度のことなので、驚きはしなかった。教室で先生の話を聞いているよりも、廊下に一人立っているほうが愉しかった。口をあんぐりしてようが、ぶつぶつひとりごとをいっていようが、だれも咎める者はいなかったし、ゲンコツを喰らわせる者もいなかった。自由にしていられたり、勉強しないでいいのが何よりだった。
「サスケさん」
 よびかけてみた。さっきのドロン、ドロン!のつづけたかったからである。
「どこにおるとかいた。おるなら、出てきなっせ」
といったとき、廊下の向こうから、コツコツという足音が聞こえてきた。
「だれじゃろうか」
 足音はわたしのほうに、だんだん近づいてきた。
 わたしは目をつぶった。猿飛佐助かもしれない。佐助なら、気づかないふりをしてやろうと思った。
 「おう、きょうも立っとるな」
 わたしの前で、止った足音が話しかけてきた。
 「なんばしたっか」
 「なんもせん」
 アカンベ!というように、ぱっと目をあけたら、猫背の校長先生であった。
 わたしはぺこんとおじぎをした。校長先生は「よし、よし」というように頷いて、「口をあーんと、あけて.....」といわれると、上着のポケットから、紙の袋を出し、飴玉を一つつまみ出して、わたしのあーんとあけた口に、ぽんと投げ入れ、
 「あのな、音のせんごと、食べろや」
 小さな声でいって、片目をつぶって見せ、校長先生も一つ自分の口の中に入れ、「音のせんごつ」というように、その口の前に指を立て、ニヤリとされた。「きょうも立っとるな、駄目じゃなかか」と頭を小突かれるどころか、飴玉をもらったが、わたしはかえってシュンとしてしまった。飴玉のおかげで、口の中はとろけるみたいに甘いというのに、「馬鹿馬鹿。ぼんやり。立っとれ、立っとれ.......」といわれているようで、それが心の中にもひろがって行った。

***

「教科書の字や数字を見ていると、頭がズキズキしてきた。痛いというほどのものではなかったが、ズキズキのあとはどろんとなってきた。いままで、空っぽで軽かったものが、鉛か鉄でも詰め込んだと思っていると、重たかったものが、すっと消えてしまい、今度はぼんやりしてきた。そうなるまではズキズキから一、二分もかからなかった。ぼんやりしてくると、むしろ気持ちよかった。だけど、教科書の字も、黒板も見えなくなり、先生の声も、教室のざわめきも遠のき、辺りがシンとしてきて、どこか彼方から、鳥の声や虫の声が聞こえてきた。」

読んでいきますと こうした順番で 高木さんの子ども時代の頭の中はなっていたんだなと思いました。こんなに他ごとに飛んでいけるのって あるんやと。「ぼんやりしてくると、むしろ気持ちよかった」

いやあ わたしは廊下に立たされるのはさけたいと そのためにはうそをついてでも なんとかしょう と思ってましたよ。なんとひきょうなやつだろうですが 高木さんは
立ってる方が 自由にしていられたり 勉強しないでいいから よかったと。

こんな考え方は 大人になってからも のこっているようですよね。
このひとにとっての自由は なんだか ほんものやんと感心してしまいました。

そうそう 立ってる高木さんの口に飴玉をぽんとなげいれた校長先生 そのとき高木さんは「馬鹿馬鹿。ぼんやり、ぼんやり。立っとれ、立っとれ....」といわれているようで、それが心の中にもひろがって行った

そうなんですね。

さいならさいなら


 

 
《 2015.11.25 Wed  _  1ぺーじ 》