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ドビュッシー

『音楽と文化』河上徹太郎著 創元社 昭和13年

ドビュッシー

 1900年といえば世紀末のデカダンの時代の色の最も濃い時であった。
その時多情多感で、あらゆる近代芸術の齎す(もたらす)戦慄に敏感な青年リヴィエールのごとき仲間にとって、ドビュッシーの出現が如何に画期的な新鮮さを覚えしめてか、我々にも想像がつくのである。
 ところでドビュッシーの新鮮さは何にあるか?今学理的に和声学上の研究は措くが、それにしても彼の和声は学理的にいって特に新奇なものがあるわけではない。それよりも問題は和声の連結にある。彼の和声はその一つ一つは非常に明確である。彼の音楽といえばすぐ簡単に曖昧な霧がかかった風景みたいなものに想像されがちだが、決して個々の和声がそうではない。 むしろ反対にその明確さは音楽史をたどっても類がなく、ほとんどモツアルトの明確さに比肩し得るくらいである。しかしただその和声を従来のドイツ音楽の如く、いわば論理的に解決するという形式で進行するのではない。我々の言葉が文章構成法と言う常識的な形式で成り立っているごとき便宜的な格式が音楽の中にあるのではない。一つ一つの和声の間に主従の関係もなければ常套的(古くからのありきたりの)な語法のごときもなく、夫々対等な立場でしかもまったく予定されずに並置されているのであ
る。万華鏡をのぞくように、各瞬間の形象は絶対明確不動であり、しかも次の瞬間には卒然と全く新しい形象が前者と何の関係もなしに現れ、かくして全体クルクル回っているうちに漠然と美しい形象の流れが現出するのと丁度同じ理屈である。

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「ところでドビュッシーの新鮮さは何にあるか?」

河上徹太郎さんの『音楽と文化』漢字もむずかしいし 音楽にまったくの素人であるわたしには わからないこともあり ドビュッシーの曲を聴かない限り なにかをいうことはできません。 そこで私はその言葉だけを 読んでみることにしました。
「彼の音楽といえば 曖昧な霧のかかった風景みたいなものに想像されがちだが」「彼の個々の和声は明確である」「ほとんどモツアルトの明確さに比肩し得るくらいである」
「我々の音楽が文章構成法という常識的な形式で成り立っているごとき便宜的な格式が音楽の中にあるのではない」「一つ一つの和声に間に主従の関係もなければ常套的な語法のごときもなく、夫々対等な立場でしかも全く予想されずに並置されているのである」「万華鏡をのぞくように、各瞬間の形象は絶対明確不動である」「しかも次の瞬間には卒然と全く新しい形象が前者と何の関係もなしに現れ、かくして全体クルクルまわっているうちに漠然と美しい形象の流れが現出するのと丁度同じ理屈である」

 私はこの文章を読んでいて 夜空に 未知の ものが 美しく 万華鏡のようにクルクルまわる光景に出くわしたような気がします。予想を突然裏切ってみたりしながらね。新鮮な気分になるってこんなことをいうのでしょう? モツアルトの音楽にもそういうところがあるんですね。
音楽家だけではなく 画家だって彫刻家だってきっとそんなところにいったときには まさに喜びでしょうね。

さいならさいなら

《 2015.11.20 Fri  _  1ぺーじ 》