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幻想画家論 クレー

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勘定する老人 1929          大きな眼と耳をもった人 1931

『コレクション 瀧口修造』 みすず書房 1991

幻想画家論 クレー

 第一次大戦が勃発して、マルク、マッケ、カンペンドンクは招集され、ロシア人のカンディンスキーとヤウレンスキーは国外に脱れた。クレーも1916年にはドイツから招集されたから、18年まで後方に勤務していたので、暇には制作することも許された。しかし親友のマッケが1914年に、マルクが1916年に戦死したことはかれにとって大きな衝撃であった。 クレーはこのような残酷な外界の出来事から自己を遮断しょうと努力した。そして「このころのようにこの世界が怖ろしくなればなるほど、芸術は抽象的になる」と日記に書いているのは注目すべきことである。かれはまたこの戦争中に、クラブントの中国の訳詩集を携えていたし、中国の詩を含む詩華集に挿絵を描くことを考えたことがあった。1918年にシュトルム出版社から出た『素描集』について書かれたハウゼンシュタインの批評を読んで「奇跡が起こった。私の作品がはじめて評価された」と書いている。1918年はまだ軍務の末期にもかかわらず、クレーにとっての多産の年で、ミュヒェンの芸術運動の刺激、北アフリカでの体験、そして長いあいだの準備がようやく結実しはじめたのである。1919年には画商ゴルツと契約を結び、翌年ゴルツによって三百数十点を集めた大回顧展が催され、ミュヒェンに大きな反響を呼んだ。そのころから画集やモノグラフがぼつぼつ出はじめて、クレーの名は国際的にも知られるようになった。

***

第一次大戦でマッケやマルクが戦死しますね。
「このころのようにこの世界が怖ろしくならばなるほど、芸術は抽象的になる」クレーはそう日記に書いているそうですが それはどういうことでっしゃろ?
抽象の奥に クレーはなにかを隠したんやろか。抽象画は私にとっては新しい手法だとずっと考えていましたが。そしてクレーは今に通じるあたらしい感覚の持ち主であり 現代にいたるまでのいろいろな人がこの感じを表現してきたと思っていました。抽象画とはそういうものだと。
しかしこうしてクレーのことを読んでいきますと 第一次大戦のさなかにあって こういう作品を評価される非常にすすんだ時期もあったと。 世界が怖ろしくなっていく時期においてはその進歩も後退を余儀なくされる時期があったのですが それはヒットラーがドイツで政権を取ってから じょじょにそうなっていくんですね。
 第一次大戦のときはクレーは多くを描き ミュンヒェンの芸術運動の刺激、北アフリカでの体験、そして長いあいだの準備がようやく結実しはじめたのですね。軍務にもついていますね。
中国の詩に関心をもったのはどうしてかしら?

クレーという人がいた時の歴史の背景 やっぱり教えてもらっててよかったなあ。 

さいならさいなら
《 2015.10.16 Fri  _  1ぺーじ 》