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ブロンテ姉妹

『ブロンテ姉妹』その知らざれる実像を求めて 中岡洋の続きです。

 しかし本が好きだった彼(パトリック)は、本を読みながら機を織ったため機織りの仕事をくびとなり、次いで反物商に移籍したが、主人の死亡で失職した。ここまでのパトリックの人生はまったく運がなかったといえるだろう。ところが、パトリックの運命はここから大きく変わっていく。長老派牧師アンドルー・ハーショー師はパトリックがジョン・ミルトンの『失楽園』を木陰で朗誦しているのを見て感銘を受け、その才能を見出したのだ。彼の世話によってパトリックはグラスカー・ヒル長老派教会学校の教師となり、5年間で有能な教師ぶりを発揮した。
 さらにハーショー師の友人、ドラムバリロニー教区司祭のトマス・タイ師の目にとまり、彼の息子たちの家庭教師をして三年余りを過ごした。当時貧しい農家の息子がアイルランドからはるばるイギリスに渡ってケンブリッジ大学に入学することはごく稀なことであった。しかし、パトリックの才能をたかく評価していたタイ師の推薦によって、パトリックは給費生としてケンブリッジ大学のセント・ジョンズ・コレッジに入学を果たすことができたのである。
 現在の「ブロンテ」という苗字が確立したのはパトリックがこのケンブリッジに入学(1802年10月3日 日曜)したときからであった。それまで「ブロンテ」家は苗字が定まっておらず、「ブランティ」あるいは「プランティ」と呼び習わされていた。しかしパトリックがケンブリッジに入学したとき、学籍係が誤って「ブロンテ」と書いてしまったらしい。それからパトリックは「ブロンテ」を名乗り、アイルランドの家族もそれにあわせて「ブロンテ」を苗字とするようになったのである。
 なぜパトリックは苗字を訂正しようとしなかったのであろうか。それは1799年に7つの海の覇者となったロード・ネルソンに関係している。ねるそんはこの功績により「ブロンテ子爵」に叙せられた。その興奮がいまださめやらぬ空気の中、パトリックは自分の苗字に関して間違って綴られても「そうではありません」とは言わずに、そのままにしてしまったのであろう。余談ではあるがロンドンに旅をするとトラファルガー広場に高く聳え立つ(そびえたつ)右袖をたたんだネルソン像が見える。わたしはネルソン・ミュージアムで見た、右手を失ったネルソンが左手で手紙を書き、署名した文字の痛々しさが忘れられない。彼はまさしく英雄であった。
 パトリックがネルソンにあやかって「ブロンテ」を名乗ったことは虫がいいように思われるが、その後、娘のブロンテ姉妹は「ネルソンとご親戚ですか」と聞かれることがしばしばあり、その都度良心的に否定していたという。しかし皮肉なことに、「ブロンテ」の名が今日世界で知られるようになったのはネルソンによってではなく、ブロンテ姉妹によってなのである。ちなみに、ネルソンが授かった「ブロンテ」という称号はもともと地中海シシリー島の「ブロンテ」という地名に由来するものである。
 こうしてパトリックは苗字を「ブロンテ」と決め、勤勉に学問に励み、優秀な成績でケンブリッジ大学を卒業した。そしてアイルランドから出て来た貧しい青年はイギリス国教会の助任司祭の地位を得て、最初の赴任先ウェザーズフィールドへ旅立ったのである。

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パトリックの苗字がネルソンになるまでの話ですね。ちゃうちゃいまっせ ブロンテですわ。パトリックがケンブリッジ大学に入学したとき学籍係がまちがえたんやんなあ。
しかし ブロンテ姉妹のことを話すのに お父さんのことがこんなにいっぱい出てくるとは。つまりブロンテ姉妹の作品にはパトリックさんのことを抜きには考えられんということですね。 機織りの仕事をしながら本をよむ 日本のええと薪を背負いながら本を読んでいたあのかたのようですね。しかしそれを見ててくれた人がいたんですね。こんなにまじめな話になってしまって 最後まで読めるのかいなあ
とまちがって苗字を綴られて そのままいったという話は これはちゃっかりしていますね。

さいならさいなら
《 2015.10.12 Mon  _  1ぺーじ 》