あ「コレクション」瀧口修造著 1991年のつづきです。
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幻想画家論 クレー
リルケの手紙によればかなりの交渉があったらしいが、すくなくともこの詩人にとってくれーの芸術はよかれあしかれ「不安なもの」であったことが想像されるのである(註)
(註)リルケのフランス語の手紙は私にはかなり難解な部分があるが、こころみに抄訳(翻訳)しておく。「私があれ(ハウゼンシュタインのクレー論)をお送りしたのはクレーよりもハウゼンシュタインのためなのです。....かれ自身はクレーの仕事について(運命)という言葉を用いていることを忘れてはなりません。クレーをそれ以外に見ることはできないでしょう。ただかれの(運命)は今日多くの不信者の前に差し出され、彼らの勝手に任されているだけです。しかもクレーは人々に変なふうに負わされた(運命)を使うことを知っています。まことにかれはあらゆる手段で、それを真に避けられぬものとして
います。運命とは人が避けられぬときにはじめて真正なものとなるのです。おどろくべきことは、いわゆる主題が消失してしまった今日、音楽と映画芸術とがお互いに相手を主題としていることです。自然や想像力さえも知らない、こうした諸芸術の間の短縮は私にとって非常な不安な今日の現象であり、しかも開放的な現象でもあるのです。というのは実際のところそれ以上にすすめないからです。しかしやがてすべてのものが秩序に戻るでしょう(それにクレーが加わることができなくなりはしないかを怖れます)....」
リルケはあとに、戦争中の1915年にクレーから60枚の彩色した「コンポジション」を托されて数カ月手許にあったが、そのうちカイルアンの影響がまだ感じられる作品だけはかれの心を惹きつけたと述べている。(本)
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クレーを見ていくとき そのときには戦争があったということを抜きには出来ないと だんだん この私にもわかってくるのです。 作品が消失してしまったり リルケに作品を托さなければならなかったり。 1915年の60枚の彩色した「コンポジション」。 考えてみればたくさんの作品です。クレーを知る手がかりは 作品と日記ですね。日記があるからわかるでしょうということでしょうが 日記がその日と総てを現しているわけじゃないですからね。リルケに対してもあまりしゃべっていない。そうすると謎解きのようなところもあるんですね。残されたものは。
さてカイルアンという これは地名なんですがクレーはこういう風に言っています。(私)
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1914年の四月にクレーは友人のモアイエの発案で、画家のマッケを誘って、チュニス、シヂ・ブウ・サイド、カルタゴを経てカイルアンへと周遊した。二十日にもみたないこの小旅行はクレーの画心に深い浸透力をもった。回教の町カイルアンでは「何という雰囲気!浸透と陶酔と明快化とが同時に起こる」と書き、写生をこころみるが、その印象に圧倒されて「私はもう仕事を中止する。あらゆるものがいっせいに私の内部に沈んでゆくのを感じる。私は何も手を出す必要がないので、それが大きな確信をあたえてくれる。色彩が私をとらえる。それを追いかける必要がないのだ。それが私を永久にとらえたことを私は知っている。それがこの祝福された瞬間の意義なのだ。色彩と私とはひとつである。私は画家である....」と興奮に満ちた手記をのこしている。この時期の美しい水彩画がクレーの仕事にエポックをつくり、線描家クレーのうちに偉大な色彩家が生まれたのであった。(本)
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1914年の第一次世界大戦の始まる年に 20日間の旅は線描だけでなく 色彩が生まれるのですね。ぱーと2でその頃の絵をアップしてみますね