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1ぺーじ

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『印象派時代』福島繁太郎著 光文社 昭和18年の続きです。

シャニックとスウラー

 キュビストは絵画は線の組み立てと、明暗の調子と、色彩の布置によって情操を表現するものとの思想をつきつめて、それによって絵画せんとする無形象に進み、遂に自然を全く離雑する極端にまで走った。
 かくのごとく理知のみに偏すると、情操は次第に乾き、機械的な繰り返しとなって味気ないものになってしまうが、スウラーは知性に優れながらも人間の知力にのみ依存することなく、時々自然直接の印象に立ち戻って情操を豊かにし、感覚を繊細にすることを忘れなかった。このために大コンポジションを制作するにあたっても、多くの自然直射のデッサンやエチュウドををつくって自然より遊離することを警戒したのである。
 「ラ・バラード」は、祭日などに街の広場にかかる見せ物の客の呼び込みの場面である。灯ともし頃の情景であるから、画面全体に濃藍色の斑点を散らして、薄暗がりの感じを出している。写真では画面全体がかなり明るく見えるが、実物は相当暗いものである。見世物小屋には圓い(まるい)燈火がいくつか吊り下げられ、その辺には朱色の斑点を多く配して、ぼんやりと明るくしている。
 人物も構造物も樹木も垂直感が多く、これに構造物の水平線を交えて平静な安定感を与えているのは「グランド・ジャット」と同工異曲であるが、中央の台に立ってトロンボーンを吹いている道化師を、距離からいえばやや薄かるべきはずなのに濃藍色の斑点をとくに多くしてつよくえがきだして構図をひきしめている。
 「ポーズする女達」も、構成からみるとラ・バラードと同様で垂直線が多く、中央に立ってポーズする女をおいて均整をはかっている。「ラ・バラード」や後に述べる「ル・シャイユ」、「ル・シルク」などのコンポジションは、見せ物に取材しながら少しも卑俗なところがなく典雅である。ロートレックがおなじ卑俗なものに謝罪してその卑俗な現実に徹しながら、彼特有の新鮮な辛らつ味によって、優れた芸術にまで昇華しているのとくらべると立場の相違が判然する。スウラーは卑俗な現実を描こうとしたのではない。彼の気質に映った身辺の情景の幻影を描いているのである。それ故に彼の気質と相容れないすべてのものは省略されている。彼は空想的なものを描かず、すべての身辺の現実に取材したがこれをもって彼をリアリストとするのは当たらない。反対にこの時代において自然主義的、写実主義的傾向に反対する最初の一人であった。スウラーはその精神において典雅な様式美を求める古典主義者であった。

***

キュビストとはええっとピカソなんかではないのですか?
こうなると情操が乾いてしまう。もしそうだとしたらたしかに。ところがスウラーはそこのところをばらんすをうまくとって片寄らないようにしていた。そうか、でもパンチが無いよなあ などと若者ぶってみたりするのですが(笑)

ロートレックの卑俗さとスウラーの卑俗は ロートレックは卑俗を卑俗そのものに表現して スウラーはそうするのが目的ではなかったと。

このように表現者たちは 何を考えてるかわからないのであります(笑)
こだわりの人たちは そのことにかなり熱心に ときには生涯をささげるのであります。

それを芸術にまで高める
自然主義的 写実主義的傾向に反対する最初の芸術家の一人でした
様式美を求める古典主義者
彼の気質に映った身辺の情景の幻影

スウラー古いのか新しいのか

さいならさいなら
《 2015.09.26 Sat  _  1ぺーじ 》