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1ぺーじ

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『ブロンテ姉妹』その知らざれる実像を求めて 中岡 洋 の続きです。

父親パトリックと母親マリア

 ブロンテ姉妹の両親がケルト民族であったということは今述べたとおりであるが、二人はどのような家にうまれあたのであろうか。
 ブロンテ姉妹の父親パトリック(1777−1861)はヒュー・ブランティ(1755?ー1808)とエリナ(アリス)・マクロリー(?ー1822)の長男としてアイルランドのカウンティ・ダウンに生まれた。現代でもアイルランド旅行に出かけると「ブロンテ・ホームランド・ドライヴ」というコースが設定されていて、パトリックゆかりの地を訪ねることができる。
 一説によるとパトリックの両親は宗派の違う者同士の駆け落ち結婚だったといわれている。その説は怪しいともいわれているが、私はブロンテ姉妹特有の孤独癖はこの祖父母の駆け落ち結婚と深い関わりがあるのではないかと思っている。父親パトリックが生まれたブロンテ家は第一子から第五子までが男児、第六子から第10子までが女児と子だくさんのにぎやかな家庭であった。他所の子どもと遊ばなくても10人もきょうだいがいれば自前で遊戯もできたであろうし、それなりに社交性も身についたであろう。また、他所の子どもたちもプロテスタントやらカソリックやらわからないブロンテ家の子供達とあえて遊ぼうとしなかったであろう。こうした特異な家族環境のもとで育ったパトリックの中には「アウトサイダー」の意識が自然に根付いていったと思われる。だからいざ彼が親になり自分の子どもの教育と言う段階になったとき、彼は彼自身の子ども、すなわちブロンテ姉妹が他所のこどもと遊ばなくても別段不自然だと思わなかったのではないか。それゆえ両親の駆け落ち結婚がパトリックの性格形成に、ひいてはブロンテ姉妹の極端な非社交的性格に影響を与えたと私は考えている。
 一方、母親マリア(1783−1821)の家はどのようなものであったろうか。マリアはトマス・ブランウェル(1746−1808)とアン・カーン(1744−1809)の間に生まれた。父親トマスはブランウェル家の次男であったが、ペンザンスの助役を務め、マリアの次兄ベンジャミン・カーン・ブランウェル(1775−?)は市長になった。本家ブランウェル家は豪商の名に恥じず、ペンザンスでは名家と謳われた。ブラウン家は当時高級品であった茶を輸入したり、食糧雑貨を扱ったり、また醸造元でもあり、錫高山を所有し、旅館経営も行って、手広く事業を進め莫大な財産をもつ裕福な家柄であった。 マリアの家はチャーチ・ストリート二十五番地の小高い通りにあった。そこは現在も残っているが、陸地が隆起したのであろう、地下室の階段を下りてみると、岸辺の階段に潮の跡がくっきりと残っており、かっては岸辺で直接船が接岸できた証拠を遺している。先祖が海賊だったという伝説が残されているが、それもおかしくないと思われた。ケルトの民は困り果て、海に乗り出すと乱暴者の根性を遺憾なく発揮して海賊行為繰り返していたのであろう。それかあらぬか、ペンザンスのブランウェル家には、水兵となって海に乗り出して行った者たちが多かったのである。

***

ブロンテ姉妹の両親は宗派の違う者同士の駆け落ち結婚だったとか(はっきりしないそうですが) でもこの時代都合の悪いことはかくしていただろうし きっと宗派の違いはおおきかったから これは宗派の違う者同士の駆け落ち結婚ですよね(おばはんのうわさばなしになってきましたよ)
姉妹のきょうだいは10人 子だくさんですねえ。 男の子が5人、女の子が5人これだけいれば 家で十分に遊べますね。
姉妹特有の孤独癖は両親の駆け落ち結婚と深い関わりがあるのではないかということらしいですね。
「嵐が丘」の1シーンを(映画)を思い出します。それが上手く思い出せないんですよ。ある貴族の家に招かれて 姉妹たちの一人が行こうか行くまいか迷っていて 思い切って行く。そこはけっこう気難しそうな母親と息子の妹か姉がいる。当たってるかなあ。これから話はすすんでいくんだけど(この本で)。クイズみたいです。しかし母マリアの家はめちゃくちゃ金持ちですね。そりゃ駆け落ちでもせんといっしょにはなれなかったやろなあ。この写真のお父さん昔ハンサムやったんかなあ。(またおばはんしてるわ)

さいならさいなら
《 2015.09.25 Fri  _  1ぺーじ 》