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1ぺーじ

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歩行 1932年

「コレクション 滝口修造」1991年 みすず書房 


クレーがはじめて絵らしいものを描きだしたのは、四つのときに母方の祖母から箱入りの色鉛筆を貰ってからで、かれがおとぎ話から想いついたらしいデッサンが残っている。この祖母は何時も刺繍の下絵を描いていたし、極彩色の宗教版画の山を見せてくれた。それから親戚にレストランを経営していた叔父があって、クレーはその店のみがいた大理石のテーブルにひどく魅せられた。その縞目の模様を見ているといろんな幻想が湧き、グロテスクな顔が見えてくるのであった。「私はこの大理石の板から眼をはなすことができなかった。これは私の奇異なものに対する生まれつきの好みを示すものだ」と日記に書いている。この二人の近い親戚のほかに、かれには一人の姉マチルド(1953年死去)があった。この姉はクレーとはまったく正反対の性格で、彼の仕事を少しも理解しなかったらしいが、困ったときにはいつも親身な世話を怠らなかった。クレーは1886年に小学校に入り、四年後には予備学校(プロギムナージウム)に入り、ついでリテラルシューレでギリシャ語とラテン語とを学んだ。そして1898年に卒業したが、学課のすべてにわたって熱心な生徒とはいえなかったようである。ただギリシャ語だけは身について、生涯のあいだギリシャの詩文を言語で読んでいた。この頃にはデッサンをしきりに描き、十冊のスケッチ・ブックが残っているがそれにもまして音楽に熱中し、十一歳でベルン市管弦楽団の補欠奏者ととなった。(のちに第一提琴奏者として演奏したこともある)。詩や小説のようなものも書いていたらしいが、すべて破られて何も残っていない。日記によると、この学校を卒業一年前にはまだ音楽志望に執着していたらしいが、十九歳になった1898年の夏には、自分を「未来の画家」と呼んでいるのである。

***

4歳のクレーはデッサンを描いた?つい孫たちのことを思い浮かべる私ですが 「デッサン」どんな絵だったんでしょうね。それによっては孫たちの絵をデッサンと呼んでしまおうかと・・。 
「私はこの大理石の板から眼をはなすことができなかった。これは私の奇異なものに対する生まれつきの好みを示すものだ」
クレーはこう日記に書いています。
がっこうではねっしんな生徒とは言えなかったけれどもギリシャ語だけ身についたと。ギリシャの詩文を言語で読んでいた。
十一歳でベルン市管弦楽団の補欠奏者になる。そのころ詩や小説のようなものも書いていた。十九歳になった1898年の夏には「未来の画家」と自分のことを呼んでいる。

こうしてクレーの子ども時代や青春時代を見てみると 彼の祖母のことや叔父の店にあった大理石 音楽や詩やデッサンといったたっぷりなものが そこにあったわけですね。 よく「迷う」ということをそのころいいますが それはいいかえれば たっぷりとした 栄養がそのとき注がれていたというわけですね。

「未来の画家」

さいならさいなら 
《 2015.08.04 Tue  _  1ぺーじ 》