『ピカソとその周辺』フエルナンド・オリヴィエ著 佐藤義詮訳の続きです。
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アゾンの店
ヴェルナン通りは退屈だ、
それでもやっぱり通わにゃならぬ、
通や一杯ひっかけて
クリーム・チーズが食べられる!
マックス・ジャコブにこの軽快な四行詩を作らせ、当時の流行歌調で歌わせた、カヴァロッティ街の料理店主ヴェルナンの店に次いで、アゾン料理店の時代が来た。それは、ラヴィニャン街のマックス・ジャコブが住んでいた家の真向かいにあった。
私たちは、読者のご想像通り、料理が旨いとより掛けで食べられたのでこの店に通ったものだ。
ある頃の常連には、ピカソ、マックス・ジャコブ、アポリネールがいた。次いでドラン、ブラック、ヴラマンク、ヴァン・ドンゲン、ガストン・モドー、オラン、ジュランもよく顔を見せた。ポール・フォールも時々、その店に私たちを訪ねて来た。
私はそこで、モジリアーニにも会った。彼は若くて、健康で、驚くべき人種特有の清純な目鼻立ちによって人目を惹く、いかにもローマ人らしい美しい顔をしていた。
彼は当時モンマルトルにある、丘の古くて寂しい貯水池の傍のアトリエの一つに住んでいた。 陽気な口調でしゃべるのだが、直に倦きられたヴァンデンビールや、元海軍士官で新聞記者となり、大戦で戦死したルネ・デュピュイ(ルネ・ダリーズ)や、当時は未だ人気のでなかったバスラーを、私はアゾンの店で見かけた。
バスラーは、もうそのころから脂太りの小男で、柔らかな湿った手をもち、信心深い寺男のように神妙な様子をし、容赦なくお世辞を振りまく時以外は慎み深いが、口先のうまいお上手屋で、利口者だった。彼がこの料理店に来たのは、見たり聞いたり覚えるため、とくに利用するためのように思われた。
何時も金がなくて、一杯のカフェ・クレームにも困っていた彼は、そこに集まる連中から吸収し甲斐のあるものは残らず吸収し、またそれに誰も文句を言えない器用さで、彼らを利用することを知っていた。もしこの芸術家の一団がなく、またあれほどの執拗さのお陰によらなければ、彼は果たして今日のような名士になっていたろうか?
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「わたしはそこでモジリアーニにも会った。かれは若くて、健康で、驚くべき人種特有の清純な目鼻立ちによって人目を惹く、いかにもローマ人らしい美しい顔をしていた。彼は当時、モンマルトルにある、丘の古くて寂しい貯水池の傍のアトリエの一つに住んでいた。」
その健康なモジリアーニがあのような悲劇を迎えるとは パリという都会はどう云う感じだったんでしょうね。
「モジリアーニ」河出書房によりますとこういうことが書いてあります。
「パリの風はけっして優しくはなかった。いや、パリはこれらの芸術家によそよそしく、つれなかった。彼らはまず自分たちがよそ者であるがゆえに深く孤独であり、生活と作品との分離・相克に悩む芸術家であるがゆえに、二重の重荷を背負わなければならなかったのである。でなければ、どうしてモジリアーニの破滅的な生涯や、待ちに待った個展を明日にひかえてのパスキンの突然の自殺が納得できるであろう。」坂崎乙郎
パリでの成功を夢見てやってきた外国人は 日本人もいたでしょうが それは大変だったんですね。
さいならさいなら