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1ぺーじ

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コレクション『滝口修造』みすず書房 1991年のつづきです。
上の絵は「世界名画全集クレー」昭和37年発行 平凡社です。


1 幻想画家論 
  クレー

 「私の光はあまりに白熱しているので多くの人には温かさが感じられないかも知れない。それではひとびとから愛されないだろう」と謙遜したクレーは、確かにこの地上に魅惑的な謎をつくりだした。それは恐怖と諧謔(かいぎゃく)、陽気と皮肉、怒りと悲しみ、さては時間と空間、古代と現代、ロゴスとエロス、東洋と西洋、思いつくあるゆる奇妙で微妙な対立を二次元の芸術のなかに折り込んだように思われる。クレーの人間はその芸術以上に不可解だとグローマンは嘆息しているが、それこそクレーのいわゆる文学者の「誤()」のはじまりでなければ幸いである。
 パウル・クレーは1879年12月18日にベルンの近郊ミュンヒェン・ブッフゼーという村の学校教師の家に生まれた。
家は代々音楽家で、祖父はバッハの先祖が住んでいたというチューリンゲンのオルガン奏者であったし、父親のハンス・クレーも歌手として立つ夢をもっていたが、結局ベルンの近くの州立師範学校の音楽教師を五十年勤めて、パウルの死ぬわずか数カ月前まで存命であった。教養の高い人だったが、芸術家の夢の破れた不満から皮肉な性格になり、それがクレーに向けられることが多かった。
母親のイダ・マリア・フリックははバーゼルの生まれで、家は南仏の出とも、北アフリカからきたともいわれている。クレーの近東への憧れはこの母の家系(伝統的な)に刺激されたらしいということである。
母も、舞台には立たなかったが、シュトウットガルトの音楽学校を卒業した人で、クレーが音楽家になることを望んでいた。事実クレーはしばらく画家と音楽家との選択に迷ったが、結局絵画を選んだ。
その理由として「絵は遅れているように見えたし、自分がたぶんそれを進歩させることが出来ると思ったから」と後年語ったことがあった。
とにかくクレーは母親っ子であったらしく、まだ四歳のころ自分の描いた「お化け」の絵が怖くなると母のそばに飛んでいったものだと、日記で追想している。
母親はクレーの七歳のときからヴァイオリンを習わせ、よく音楽会や劇場にも連れて行った。そして十歳のときにイル・トロヴァトーレを演奏したが、クレーに一つの思春期の記憶が残っている。母親と二人でバレーを見てきたあとで、「春画めいた」絵を描いてひどく叱られたことである。
母親は1906年ごろから体の一部が不随になって悩んだが、それが二人の愛情をひとしお深く結びつけた。1921年母親の死んだ日、クレーは女性の姿がアトリエを通りすぎるのを見たといわれる。当時の水彩やグァーシュに母の死を悲しんで黒枠を描きこんだものがある。

***

暑いです。私は数日前 とても暑い夜 呼吸の仕方を忘れて 大騒ぎしました。これは怖いですよ。笑い話としたいところですが 今回はやばかった。日頃から呼吸は誰がしているのか 確認しとかないとね。 
クレーは自分で描いたお化けの絵をみて怖くなってお母さんのところに飛んでいったそうですね。
クレーは音楽と絵をおさないころからやっていましたね。画家と音楽家との選択に迷うほどね。音楽と絵がつながってる芸術家はいますよね。クレーはすでにその環境からしてそういうものをたっぷり持っていたんですね。
画家になろうと思った理由が 「絵画は遅れているように見えたし、自分がたぶんそれを進歩させることができると思ったから」といっています。
そうなんですね。音楽も絵も 進化していくものなんですね。クレーは絵がその時よりもまだ進んでいけると感じたということかしら? 
バレーをお母さんと見てきた後 「春画めいた」絵を描いて叱られただって?
 「バレーって 実は 色っぽいんだって 素直に見れば(笑)」
クレーはお母さんが亡くなった日 女性の姿がアトリエを通り過ぎるのを見たわけですね。そうか。
お母さんにクレーはくっついていたから 音楽やバレーをみじかに見たりできたわけで 怒りっぽいお父さんだけだとうまくいきませんよね。
うちはね 心配性の母親と 私よりは気にしない父親で 子どもは大丈夫かしら? しかしもう手遅れですよ。 みんな大人です。
いやあ 息ができない!まず私を救わなくては。「そのときに どう対処するか 考えればいいんですよ」先生に教えてもらったんです。 そんなふうになりたいなあ。忘れないように メモ!

さいならさいなら 


《 2015.07.30 Thu  _  1ぺーじ 》