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1ぺーじ

『音楽と文化』河上徹太郎著 創元社 昭和13年の続きです。


ベルリオズ

とはいえ、この二人はその資質や影響において大いに異なっている。不ランクは隠遁的な、中世の聖者のごとき生活のうちに、教会のオルガン弾きとして一生をすごし、オルガン曲を主として少数のピアノ曲を主として少数のピアノ曲や管弦楽曲を遺した。しかしその沈潜(ちんせん)した穏和精妙な情緒にも拘らず、ラモオやクープランのフランス音楽の伝統の根幹をドビュツシーを首領とする二十世紀フランス音楽の盛大さに結びつける常用な役目をしたのは彼であった。これに対しベルリオズは激しい情熱を絢爛たる管弦楽法による音楽に盛ったのであるが、伝統的にはそれはむしろドイツ音楽の生硬で緊密な形式を踏んでおり、しかもその影響をまともに受けて発展させた後継者もなく、むしろ史的には孤立している。しかもベルリオズの音楽が、大きな目で見て左革命的なものを含まずただ情熱の激しさがそれに生彩を与えているのを見ると、あるいはかれは一流の天才ではなかったかもしれぬ。少なくとも彼は、名義的にはフランス音楽中興の粗であったけれど、実質的にはむしろ浪漫派のフランス国土内に芽生えた一つの落とし種であった。彼が最も尊敬した音楽家はグルッグとベートーベンであった。すなわちこのギリシャ悲劇的なドイツ・オペラの建設者と、管弦楽のあらゆる要素や手法の限りをかくした壮大な交響曲の始祖とが彼の師であった。ベルリオズが一世を代表する天才音楽家ではなかったとはいえ、彼が単に時勢に追随した凡庸な作家ではなく、音楽の正統を見究め、自信溢れる情感を音楽に盛った偉大な作家であることには間違いない。彼は後に述べるように幼児から音楽的環境に恵まれず、父の希望で医学を修め、ピアノも弾けなかった田舎学生であったことは事実だ。しかし当時のフランス楽壇が、ややもすれば低級扇情的なイタリー・オペラの流れを汲んだオペラ作者に引き回される傾向を最も嫌って、ベートーベン、ウェーバー、メンゼルスゾーン等の当時未だ十分の評価や人気を得てなかった師匠の作品を支持した勇気と見識は、やはり凡人のものではない。当時のイタリーオペラのときめく大御所ロッシーニに向かって「貴様の身体を真っ赤に焼けた鉄の棒にはりつけにするがどうだ。」と啖呵を切り、またベートーベンには何にもまして尊敬の念を抱き、後年はじめてウイーンへ演奏旅行した時には、彼が指揮した指揮台に登って、「あの人の立った台の前に立った時、如何に私の膝のおののいたことか!」と実に処女のごときナイーヴな敬虔な感慨を洩らしている。

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いやあベルリオズは熱い人ですね。そうそう ロッシーニという音楽家はイタリー・オペラの大御所だったんですね。つまりイタリーオペラに 対抗意識があるベルリオズは「貴様の身体を真っ赤に焼けた鉄の棒へはりつけにするがどうだ」などと脅しの文句まで。ヤバい人ですね。
ロッシーニがイタリー・オペラの大御所であるころ かのベートーベンやウエーバー、メンデルスゾーンは十分な評価や人気を得ていなかったんですね。そのころからベルリオズは彼らを認めていたという。
でベルリオズというと 天才であったかどうかは解らない。

Rosemary Brownによりますとリストとベルリオズは仲が良かったそうですね。リストといっしょに現れたベートーベンやショパン、シューベルト、シューマン、ブラームスなどはあの世に行ってからも仲間であっても それと同じくしない音楽家たちもいたんでしょうか。ロッシーニはでてきませんよ。あの世でもそんなことがあるのかー。

さいならさいなら


《 2015.07.27 Mon  _  1ぺーじ 》