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1ぺーじ

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印象派時代 福島繁太郎著 昭和18年の続きです。


第八章 シャニックとスウラー

新印象派 ポウル・シャニック(1863−1935)
ジョルジュ・スウラー(1859−1891)

 印象派の直系として生まれた運動に新印象主義(ネオ・アンプレショニズム)がある。ネオ・アンプレショリズムとポスト・アンプレショニズム(後期印象主義)とを混同してはならない。新印象主義は1886年5月の第八回印象派展覧会において初めて現れた傾向で、同年12月発行のレヴェンヌマン誌においてアルセーヌ・アレキサンドルがかく名づけたのである。
 第八回印象派展覧会における新印象主義者はスウラー、シャニック、カミユ・ピサロ、その子ルシアン等であった。
 この新傾向の創始者はポウル・シャニックであった。シャニックはパリ生まれの人で印象主義の共鳴者として画家生活を発足したが、1883年の3月から6月まで開催されていた印象派展覧会をしばしば訪れて、深く感ずるところありこのころより新しい試みに志していた。
 話は変わるが印象派の若手連は印象派展覧会の外に、自分たちの活躍舞台をほしくなったので、1884年にサロン・デ・ザンデパンダンを創立した。
 出品者はスウラー、シャニック、アンリ・エドモンド・クロス(本名アンリ・ドラクマア)、アングラン、デュボア、オディロン・ルドンなどであった。
 印象派展覧会は啓蒙の目的を達して、1886年が最後となったので、この時からアンデパンダンの連中が、新興絵画運動の指導者となる現象が現れてきた。
 アンデパンダンは、印象派展覧会のごとく一定の主張を持つ物ではなく、審査制度を用いいざる官設サロン反対の展覧会であったから、当初より種々雑多の人を含んでいた。シャニック、スウラーのごとく後に新印象派となった人があるかと思えば、孤立の画家おオディロン・ルドンなどもいた。
 その後も、各々傾向は異なるが、いづれも後には19世紀後期を飾る大家となった人々が出品した。
 1888年にはヴァン・ゴーグ、その翌年からはアンリー・ルウソウ、トゥルウズ・ロートレック、十年後の1898年からはポゥル・セザンヌが出品した。
 1901年になるとマチス、ボナール、ヴィヤールを初めとしゲラン、ラプラード、マルケ、ドニなどがづらりと顔を並べている盛観さである。

***

印象主義 ええっと モネとかルノアールでしたっけ?せっかく印象派時代を真面目に勉強しようと思っているのに。もともと印象派がでてくるのには「写真」という物の登場がありましたね。

「できるだけ本物らしい形をあらわすのだったら、写真の方が絵よりももっとかんたんに早く写し出すことができるしかし、絵には、写真ではあらわすことのできない独特のものがある。たとえば、色の美しさや、色その物の性質である。こういうことに気づいたことが、絵に対する考えかたをかえたのである。そして、最初に、この新しい方法を試み、19世紀の中頃以後、20世紀の現代にいたる絵のおおもとを開いたのが、フランスのエドアール・マネ(1832−1882)である。」
「マネはゴヤからは非常に影響を受けた。しかしゴヤの色でさえ、マネに撮ってはまだ暗かった。」
この文章は『世界美術物語』 嘉門安雄著 偕成社のなかにあります。

さてこの印象派がまた分かれていきますね。
新印象主義と後期印象主義を混同してはならない?
第8回印象派展覧会における新印象主義者はスウラー、シャニック、カミユ・ピサロ、その子ルシアンですか。スウラーの点描しか思い出せません。かろうじて名前は知っていてもどんな絵なのかは。そうそうモネはどこに入れるんでしたっけ?

印象派がどのようにして生まれたのかは少し解りましたが、新印象主義も画家たちの名前が出てきましたが わからないのは後期印象主義。わたしはきっとセザンヌがそうだと思うんですが。

アンデパンダン展の出品者はゴッホ、ルソー、ロートレック、セザンヌ、マチス、ボナール、そしてヴィヤール、ゲラン、ラプラード、マルケ、ドニなどは私はよく知りません。

「私は印象派が好きです。」
とよく言ってきましたが 「私は自分が好きでよく知っている印象派が好きです。」と言い換えなければなりません。まだまだ知らないことがあります。これからこの福島繁太郎さんの「印象派時代」のなかでどれぐらい 私は印象派の画家たちに出会うことができるんでしょうね。楽しみです。
「明るい色をつかう印象派」世界美術物語で出てきましたね。私も少しだけ影響を受けてるんですと言わせてくださいね。

さいならさいなら


《 2015.07.24 Fri  _  1ぺーじ 》