『ピカソとその周辺』フェルナンド・オリヴィエ著 佐藤義詮訳の続きです。
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アンリー・マチス
金色の濃いあごひげを生やし、目鼻立ちの整った顔のマチスは、巨匠の風格を備えた感じの良い人だった。しかしながら、彼は大きな眼鏡の陰に隠れて、眼の表情を控えめにしているようだったが、彼に絵画の話をもちかけさえすればいつまでもしゃべり続けるのだった。
彼は論争し、断定し、説伏しようとした。明るい感じで、驚くほど聡明で、明確で、簡潔で、理知的な人だった。おそらく、彼自身は人から単純な人間のように思われたいらしかったが、決してそうではなかった。
彼はすでに45才近くだった。
いろんな会合の席などでは、臆病で、何時も多少陰気で、もじもじしているピカソとは反対に、とても落ちつきはらったマチスは、一きわ目立って衆目を惹いたものだ。
彼らは二人とも最も期待された画家だった。
マチスは、果して「野獣派」の創始者だったろうか?
私はむしろ、この生みの親はドランだったと思う。彼こそ若輩だったにせよ、ヴォーセルが野獣派という名称を与えた最初の作品を出品した人だったからである。
しかし、マチスは異議なくこの流派の首領になった。
ピカソとマチスはかなり親しかったが、立体派が誕生した際互に衝突した。立体派は、マチスを従来の静けさから一歩踏み出させたという点では、彼に寄与することがあった。彼は腹を立てた。ピカソを「のばしてやる」、「完全にやっつけてやる」と言っていたが。しかしそうしたことも、数カ月後になって、このスペイン画家の新運動が確立された時、彼が両者の芸術的見解に血のつながりを見出そうとする妨げにはならなかった。
二人の巨匠は互いに助け合うことこそ必要だった。
画家のマンガンは小柄で、褐色の髪を持ち、ブルジョワ風の身なりをしていて、マチスよりは少し若かった。すでに大勢の家族の長で、その作品から受けるのと同じ印象を彼からは受け取られた。彼の芸術は、実生活と同じく平凡で、正確で、大がかりのところのない穏やかなものだったが、正直で良心的だった。
私はスタイン兄妹の家に集まった人々全部について語ることはできない。思いつくままに名をあげれば、ピエール・ロシェール、マックス・ジャコブ、アポリネール、ルオー、彫刻家のナーデルマン、その他......。
私たちはそこで陽気だったことも、静かだったこともあるが、アトリエに充満していた多数の芸術作品のお陰で、何時も愉快な夜を過ごしたものだ。
スタイン兄妹は実に美しい支那と日本の版画の非常に貴重な蒐集を持っていた。退屈すると、片隅に退いて立派な安楽椅子に腰をおろし、これらの傑作の鑑賞に耽ったものだ。
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マチスは果して「野獣派」の創始者だったろうか?
私はむしろ、この生みの親はドランだったと思う。彼こそ若輩だったにせよ、ヴォーセルが野獣派という名称を与えた最初の作品を出品した人だったからである。
オリヴィエは言った。当時この文章からはマチスは若いピカソのことをかなりライバルだと感じていたようですね。マチスは45才 ピカソは何才だったのかな。1906年にピカソはマチスに会うとあります。このときピカソは25才ぐらい。
こんなくだりもありますよ。
いろんな会合の席などでは、臆病で、いつも多少陰気で、もじもじしているピカソとは反対に、とても落ちつきはらったマチスは、一きわ目立って衆目を惹いたものだ。
これはマチス45才(でしょうか)とピカソ25才の違いもあると思いますが 若いのに頭角をあらわしてきたピカソはこうだったのですね。
二人とも期待された画家だったのですね。そして現代では だれもが知る マチスとピカソです。
私たちはそこで陽気だったことも、静かだったこともあるが、アトリエに充満していた多数の芸術作品のお陰で、何時も愉快な夜を過ごしたものだ。
そうですね こういうライバルがいて いい作品が生まれてくるんでしょうね。
この『ピカソとその周辺』はピカソの恋人が書いているんですが これはピカソが彼女のもとを去ってからの手記なんですかね? 芸術家は平和に絵を描いているだけではないのはよくわかりますが 恋人のピカソだけではなく まわりの画家達の事がよく表現できていると感じるのは 私だけではないと思いますが。 この本を編集した人は なかなかの人だったんじゃないのかとか。
マチスがピカソのことを「のばしてやる」、「完全にやつけてやる」なんてこといったらピカソも彼女も「そのセリフは こっちのセリフよ!」なんてことにはならなかったのね(笑)
彼は(マチス)は論争し、断定し、説伏しようとした。
さいならさいなら