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1ぺーじ

『音楽と文化』河上徹太郎著 創元社発行 昭和13年の続きです。


モツアルト

 モツアルトは多くの音楽の天才の例にもれず、すでに幼児から驚くべき才能を示し、三歳の時ピアノに向かって自ら三度の和音をたたき、四才の時にはすでに曲を弾くことを覚え、五歳になると自分で曲を作ることを始めたという。彼の驚くべき才能を知った父親は、芸術的な喜びよりはむしろ息子を有名な音楽家にするという実際的な目的から、熱心に彼に音楽教育を施した。そして彼は1762年すなわちウォルフガングが七才になった時に、ナンネール(姉)とともにミュヘンに出かけたのを最初として、絶えず演奏旅行に連れ出して諸所の宮廷あるいは貴族のサロンで二人に演奏させ、その称賛と報酬を期待したのであった。これはいまだ幼少と言っていい子供にとって肉体的にも精神的にも重荷な仕事で、そのために心身の健康を少なからずさまたげる結果になったと言われる。この旅行によって、従来完全に父親の指導と影響の下にあったモツアルトが、他の多くの音楽家の演奏並びに作曲に接して音楽の新しい世界に触れ得たことも見逃す訳にはゆかない。1768年のウイーン旅行ではグルックの「アルチェステ」を聴き、父親が理解しなかったにもかかわらずウォルフガングはこの大家の作に心酔した。更に彼にとって重要な収穫は多数のカンカータ、交響曲、協奏曲の演奏を聴いたことであった。当時ウイーン派と呼ばれた学派の中にはヨーゼフ・ハイドンもいて、濁逸(ドイツ?)古典音楽の中枢をなすソナタや交響曲の形式が漸次に(だんだん)完成されつつあった。ハイドンはモツアルトの先輩であったが互いに深い愛情で結ばれていた。当然モツアルトはハイドンから作曲上の種々の技術を学んだ。その感謝のしるしとして後年彼の傑作の一つである四十湊曲を捧げて「これは私が払うべき借財です。というのはこれらの作品を書く技術を暗示してくださったのはハイドン氏だけですから。」と書いた。またハイドンもモツアルトの父親に向かって「私は神かけていう、名誉にかけて誓う。私の目をもってすれば、あなたの息子さんは古今未曽有の大作曲家である。」といった。
 モツアルトの父親は彼に対してその才能による実際的な名誉と報酬を期待し、過酷と言っていいほどの勤勉と服従を要求したに拘らず、その奥にある愛情を信じたモツアルトは、驚くほど父親に従順であった。十才になる頃まで彼はよる寝床に就く前に自分の作った歌を父親に歌って聞かせ、父親は二部を歌ってそれにあわせた。そうしてから彼は父親の鼻の頭に接吻して、年をとったらお父さんをガラスの箱の中に入れて大切にしましょう、と繰り返しいった。これが彼の寝る前の儀式で、これが終わってから彼は満足して静かに床に入ったという。

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ハイドンが出てきましたよ。モーツアルトにとって作曲の技術を暗示してくれた人だったのですね。ハイドンはモーツアルトのことを父親を通してえらいほめていますね。それに気を良くしたお父さんは また過酷なほどの勤勉と服従を要求するんですね。 モーツアルトがまだ子供だったから 素直に聞いたんでしょうか。なんかモーツアルトは痛々しいところもあったんですね。「お父さんをガラスの箱に入れて大切にしましょう」そんなふうに言ってますね。
はやくして才能を開花させたモーツアルト。それは子供の体や精神的な成長には無理がありましたが またそのころに ウイーンにていろんな曲に触れられたことは 大きかったんですね。ハイドンはウイーン派でした。そしてドイツ古典音楽の中枢を成すソナタや交響曲が完成されつつあった時期だったんですね。このようにいろんな要素がまじって モーツアルトがいたんですね。

さいならさいなら
《 2015.06.24 Wed  _  ちまたの芸術論 》