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1ぺーじ

『音楽と文化』河上徹太郎著 昭和13年 創元社発行の続きです。
今回もショパンの話です。


 フレデリック・フランソア・ショパンが生まれたのは1810年で、同じ浪漫派の音楽家シューマンと同年、リストは一年後に生まれたのであった。
 父親ニコラスはフランス人で、ポーランドの首都ワルソーの近郊でスカルベック伯爵夫人の家庭にあって家庭教師をしていたが、その伯爵夫人の祝福の下にジェスティナ・クルヅイザノフスカという落魂(らくこん・おちぶれた)した上流婦人と結婚した。そして四人の子供を持ったがフレデリックは二番目で、あとは皆女の子であった。フレデリックは伯爵夫人を教母とし、彼女の兄弟フレデリック・スカルベック伯爵を教父として、つまり貴族的な環境の下に育った。しかもその家庭は平穏な、情愛に満ちたもので、その点では彼は非常に幸福な幼年時代を送ったのであった。彼は強健ではなかったが、特に華奢な出来でもなかった。
 あらゆる天才音楽家の例にもれず、彼は読み書きを覚える前から音楽の教育を受け、まだペンをつかえぬころまでに作曲をした。そして八歳の時にワルソーの慈善音楽会に招かれてピアノを演奏したが、それがショパンのピアニストとしてのデビューであった。彼のピアニストとしての技術は既に少年時代に完成されていて、そのためポーランドの上流社会のサロンに出入りし、優雅な精錬された趣味の影響を受けることが出来た。現代のように音楽が一般化され解放されているに比べて、当時浪漫派華やかなりし時代には、音楽はサロンを除けては存在し得なかったのである。当時のショパンを伝記作者は「少女のようななで肩の。美しい手と絹のような褐色の髪を持った少年」と形容している。十五歳から十八歳までショパンは官立中等学校で一般の中等教育を受け、音楽は特にジョセフ・エルスナーに就いて学んだ。1831年すなわち彼は21歳のとき、永久にポーランドの地を離れるのであったが、その前に二度、最初の時はベルリン、二度目の時はウイーンを中心に欧州を旅行し、自身演奏するとともに、音楽並びに一般の見聞を広めた。「フライシュッツ」を見、ヘンデルを聴いたのはその時である。その頃の彼の手記や手紙はこの旅行の楽しさを語っている。このころ彼は伝記に現れている上で最初の恋をした。相手はワルソー・コンセルバトリイの女生徒でコンスタンシア・グラドフスカといった。しかも彼は彼女に打ち明ける勇気もなくて思い悩んでいた。当時親友にあてたショパンの手紙に次のような一節がある。
 「どんなにワルソーが僕にとって悲しい所だか君には分かるまい。もしも僕が家庭によって幸福でなかったら、このところにもう住む気はしないだろう。ああ、喜びや悲しみを分つことのできる出来る人が一人もいないのはなんと辛いことだろう。心がいっぱいになりながら一人の人に打ち明けることも出来ないとは何と堪らないことだろう。僕がどういうことをいっているのだか君はよくわかってくれるだろう。君に話したいようなことを、どんなにたびたびピアノに語っていることか・・・。六ヶ月経ってしまったのに僕は毎夜夢見てる人とまだ一言も交わさないでいる。彼女のことを考えながら僕はコンチェルトのアダヂオを書いた。そして今同封して送るワルツは今日早朝彼女のことから霊感を受けて書いたのだ。」(1829年十一月)
 この手紙が子供っぽい感傷に満ちてるとはいえ、ショパンの生活した浪漫的な環境の一部は確かに誤りなく伝えているものがある。このコンチェルトとは彼の第一の短調協奏曲で、そのアダヂオとロンドを彼は最初のリサイタルで弾いて好評を獲た。コンスタンシアはその後ショパンがワルソーでの最後の演奏をしたときに同じ舞台に出たりしたが、彼はついにその心を打ち明けることをしなかった。そして1830年の十一月にウイーンに向かって永久にワルソーを立ち去った。そのとき師のエルスナーと友人たちはワルソーの郊外まで送り、そこで音楽学校の生徒達はエルスナーのカンタータを歌い、別れの宴を張った後彼に銀の杯を贈った。その中には、ショパンがどこまでいっても友だちと祖国を忘れないという誓いのために、ポーランドの土が一杯入っていた。そしてそれこそ彼がその後祖国の危機のために涙を流し、また死んでパリに葬られた時にその棺の上に投げ込まれた所の、祖国の土なのであった。
 彼の親友の一人がそのとき彼とともにウイーンに行ったのだが、その友だちは間もなくポーランドに革命が起こった知らせを受けるや、祖国のために銃をとるべく帰国した。あれほど熱情的な愛国者のショパンがそのとき何故一緒に帰国しなかったのか分からない。然しもし帰っていたら、当時の若い彼の同志の運命から推して、ショパンも死んでいたに違いない。して見れば我々としてはショパンの傑作がそのときショパンとともに戦死を免れたことは、ともあれ喜ぶべきことなのである。

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ショパンが生まれたのは1810年 同じ浪漫派の音楽家シューマン、リストなどもおなじころの人ですね。Rosemary Brownの本ででてきますね。リストがシューマンやショパンをつれて来る話。
「少女のようななで肩の、美しい手と絹のような褐色の髪を持った少年」
そんなショパンが21歳のときコンスタンシア・グラドフスカという女性に初恋をします。彼女のことから霊感を受けてコンチェルトもアダヂオを書きます。しかし友に手紙で言っているように この恋はそこを去るまで告白されることはなくおわります。ポーランドに革命が起こります。友だちは祖国のために帰国 銃を持って戦いますがショパンは戻りませんでした。そのことで結果的にはショパンとその傑作は戦死をまぬがれます。

あの世にいるショパンやリスト。おもしろいことにRosemary Brownhaはこういっています。「肉体のない人々は、時々この世の空気を避けて逃げ出さなければならないのだと私は考えています。この場合の空気とは雰囲気のことであって、物理的な空気はあんまり関係ありません。絶えず発生いている苦しみや争いのことを考えれば、彼等がこの世をかなり悲惨な世界とみなしていることはたしかです。そのような世界にい続けることは彼等に悪い影響を及ぼすに違いなく、結果として彼等は一休みし、少しの間意識をくつろがせなければならないのでしょう。もちろん彼等は肉体的に疲れるわけではありません。疲労するような肉体をもたないからです。」Rosemary

そして あの世のショパンはとても若く見えます。その豊かな髪にはウエーブがかかっており、晴れやかな美しい微笑みはとても若々しい外見を彼に与えています。とても整った、やや面長の顔立ちは、多少子供っぽく見えます。瞳はとても明るい、灰色がかった青いろです。rosemary

このように「音楽と文化」河上徹太郎とRosemary Brownの本を並べながら読んでみると
とても面白い本になります。
ポーランドの革命も当時は血なまぐさい戦いだったでしょうが 今の世の中も 肉体をもたない世界からすると 長くいてられない所なのかもしれませんね。

ショパンの恋の話で その時代の空気を感じつつ 本を読んでいます。

さいならさいなら



《 2015.05.21 Thu  _  ちまたの芸術論 》