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1ぺーじ

『ピカソとその周辺』フエルナンド・オリヴィエ著 佐藤義詮訳の続きです。


ルソーの祝宴

 それからしばらくして、ピカソは自費で自分のアトリエでアンリー・ルソーのための祝宴を張ろうと思いたった。この計画は一党の連中を熱狂させた。税官吏をからかうのが嬉しくてたまらなかったのである。
 三十人余りの人々が招待されるはずだったし、また夕食後来たいと思う人は誰でも差し支えないことになっていた。
 思いがけない事件があったりして、この祝宴に一層興を添えた。飾り付けはすっかり出来上がり、色テープが柱や梁を被い、天井までも張り渡された。奥の方の焼き絵硝子窓の前に、ルソーの席としてはこの上に椅子を載せて作った一種の王座が、万国旗や紙提灯を背景にしてくっきりと浮かび出ていた。その上の方に、「ルソー万歳!」と書いた大きな吹き流しがかかっていた。
 長い板が食卓代わりに脚台の上に載せてあった。椅子や皿や食器などは、行きつけの料理店主アゾンが貸してくれた。厚手のコップ、重くて小さな皿、()のスプーンやフォークなど。けれども人々はそんなものにあんまり注意を払わなかった。
 すっかり用意ができて、来客は所狭しとばかりにアトリエに押しかけたが、八時になって仕出し屋に頼んでおいた料理が届いてこなかった。やっと翌日の正午に届けられるという始末だった!
 私たちは、町内のパン屋や料理店に行って、ありったけのものをかき集めた。その間にお客達は酒場に引き返し、自動ピアノの音に誘われて、食前酒を飲みなおしていた。
 この芸術家の仲間にはいったばかりで、友だちの間では「ココ」で通っていたマリー・ローランサンが、かわいそうに、彼女を酔わそうとたくらんでいた数人の人たちから親切らしくちやほやされたのはその時である。
 それは苦もないことだった。彼女はアトリエに引き返したとたんに、長椅子の上に並べてあったパイの上に倒れかかった。そして両手も着物もジャムだらけのままで、誰でもおかまいなしに撫で回したものだ。彼女の興奮は静まるどころか、アポリネールと口論さえ始めたので、人々は少々手荒くココを母親のもとへ送り帰した。
 やっと来客一同は食卓についた。
 ルソーは、いよいよ始まったと思って真面目な顔つきをし、両目に涙を浮かべて、彼のために設けてあった天蓋の下の席についた。彼は何時もより余計に飲んだので、しまいには陶然と酔ってしまった。
 数番の演説があり、その日のためにわざわざ作られた祝典歌が数曲歌われた。ルソーは感激のあまり、ことさらに早口に幾ことかしゃべった。彼は実に幸福だったので、夜会の間中、彼の頭の上につるされた大きな紙提灯からたれ落ちる蝋涙を、泰然として頭で受け止めたのだった! 滴はいつのまにか彼の頭上に道化帽のような小山を築き上げたが、彼は紙提灯に火がつくまで、それを平気で載せていた。人々はこれで祝宴が終わったということをルソーに納得させた。するとルソーはさげてきたヴァイオリンを取り上げて、小曲を演奏し始めた。
 なんという晴れやかな夜会だったことか!そこに乗りこんでいた二組か三組のアメリカ人の夫婦は、威厳を失うまいと努めていた。男の方は黒味がかった服を着、女の方は晴れやかな夜会服を着て、私たちのまん中で見えを張っているように思われた。
 画家の夫人たちはあっさりとした、でもやはり独創的な服装をしていた。アジェロ夫人は寄宿生のように黒い上っ張りを纏っていた(まとっていた)。彼女の無頓着な夫は、自分ではそこに堂々と控えていると思っているらしかったが、傍から見れば、いないのも同然だった。ピチョット夫妻、フォルヌロ夫妻、夜会が終わりに近づくと石鹸をかんでくちから泡をふき、癲かん(てんかん)の発作の真似をしてアメリカ人たちをびっくりさせたアンドレ・サルモンとクレムニッツ。ジャック・ヴァイヤン、マックス・ジャコブ、アポリネール、レオならびにゲルトルード・スタイン、その他。
 食後、ほとんどモンマルトルの中の人間がアトリエの中を練り歩いたが、そこに長くいられない大勢の人々は、手のとどく所にあったパン菓子やその他の食べ物を、面白半分にかっぱらって行った。ある男などは、私がじっと見てるのに、どっさりポケットに詰め込んだ。
 ルソーはお得意の歌を歌った。
  あいた、あいた、あいた、歯が痛くて・・・。
 けれども彼はその歌を歌い終わらずに、眠りこけてしまい、かすかにいびきをかいていた。
 彼は時々不意に目を覚まして、自分の周囲に起こっていることがいかにも面白いという振りをしたが、長くは我慢しきれなくて、彼の頭はまた肩の上に倒れてしまうのだった。彼は気の弱さ、素直さ、ほろりとさせる見栄をもった愛すべき人物だった。長い間この祝宴の感激に満ちた思い出を胸に抱いて、それを好々爺は、彼の天才に対して払われた敬意だと信じこんでいた。
 彼はこれに対して感謝を述べるために、美しい手紙をピカソに送った。
 その後しばらくして、二度も妻を失ったルソーが三度目の婚約をした。
 彼の未来の舅が、その娘にとって彼が老けすぎていると考えたので、彼との間に自尊心から仲違いを生じた。その娘というのが五十九歳だったことに注意されたい。ルソーは六十六歳を少し越えたはずだった。舅の方は八十三歳だった。婚約者が父親の意見を度外視したがらないことが、ルソーをいたく悲しませた。彼はそのためにすっかり沈んでいた。
 私ぐらいの年齢の人間が恋をしたっておかしくはありません。そりゃもう、あなた方とのようなお若い方たちと同じ恋じゃありますまいが、年をとってるかといって、独りで生きて行くように諦めねばならないものでしょうか? 誰もいない寂しい家にしょんぼり帰って行くのは、実にたまらないことです。それどころか、私位の年になってこそ、心を温めてもらったり、独ぼっちでゆくのじゃなくて、もう一人なじみの者があの世に渡る手助けをしてくれるのだということを知っているのが一番必要なんです。再婚する老人たちをひやかしちゃなりません、愛しているものの傍で、もう間近に感じられる死を待たなくてはなりませんからね。
 彼はそんなことを静かなしめっぽい声で話すのだった・・・。それなのに、彼はその計画を実行する時間がなかった。彼はそれから数ヶ月後、病院で独り淋しく死んでいった。
 もう一つ彼の無邪気さを示す話がある。私はある日、ピカソがスーリエ親爺の店で手に入れた、あの前にお話しした窓辺に佇む夫人の絵の話を彼にした。私はその時までこの窓の前面はスイスの山の風景だと思っていたので、「じゃあなたはその絵をお描気になった頃はスイスにいらっしゃたんですの?」と、ルソーに言った。
 まるで私が彼をからかいたがってでもいるかのように、私の方に非難のまなざしを投げた。
 「おやおや、あなたはパリの城郭をご存じないんですか?私があれを描いたのは、税関に勤めていて、××門のほとりに住んでいた時でした」と私に答えた。
 私はそれがなんという門だったか忘れてしまった。

***

このページを読みながら、66歳のルソーのことを自分のことのように読みました。あのころは66歳はもうだいぶ年寄りだったんですね。私はまだまだだと思っていますが 店員さんなどが私をいたわるようなしぐさを見せるとき 「年取ってきたんや」と思いますね。 ルソーは二度も奥さんを失い三度目の婚約をしようとしていたんですね。オリヴィエはそんなルソーにやさしいまなざしをむけて 歳を取ることに共感していますね。あの人の好さそうなルソーにはそうさせる何かがあったんでしょうね。
こうしてオリヴィエはルソーのエピソードを書き残しました。絵を描き残すことも素敵ですが このようにルソーの出会った時の様子、人柄を書き残すのも 素敵だと思いませんか? ヴァイオリンをひくルソー 頭にたれてきたろうそくで道化帽をかぶったようになったルソー 眠りこけてしまったルソー このピカソの祝宴を何時迄も幸せそうに覚えていたルソー。そこでのマリー・ローランサンのエピソードもありました。
だれでも むかえ入れる宴会 ピカソはそのころ このルソーのことを みんなでお金を出し合って食べ物を用意したのかしら。今となっては それはすばらしく興味深い祝宴になったのだけど。オリヴィエといい ピカソとその仲間といい 画商たちといい パリでは こうしてなにかあると集まっていたのかしら。食べ物をポケットに入れて持ち帰る連中がいても いろんな人がいて そんなことは気にしなかったのか それとも後にピカソはそういう経験の中で 人を見ることをしたのか いやピカソだって かってはそういうこともしたのかも。この本の最初のページではそういうこともありましたね。
この本は 人がたくさん出てきて 興味深いです。

病院で独り淋しく死んでいったルソー。 画家たちの一生は絵とともにこのようにして残されたのですね。

さいならさいなら
《 2015.05.24 Sun  _  ちまたの芸術論 》