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『関係のフラグメント||』立岡さん著 の続きです。

中島らもとチャールズ・ブコウスキー
若しくは、ヘンリー・ミラーの息子達

中島らも

 『砂をつかんで立ち上がれ』というおもに読書に関するエッセイを集めた本を最近読んだ。例のバックドロップの連続で一気に読んだ。
 無人島で一冊だけ本を持っていくとしたら何を持っていくかというところで、ミラーの『ネクサス』『サクセス』『ブレクサス』『北回帰線』『南回帰線』の書名が並び最後に中島らもらしく、百科事典に白紙の原稿用紙で終わっている。
 『三度目のチャレンジ』というエッセイでは、ミラーのタイプライターに向かう姿にあこがれて、三度目のワープロにチャレンジするお話。書き出しがいかにもミラーキッズという感じがよく出ているので引用してみる。

 おれはヘンリー・ミラーが大好きだ。ブレスの長い文章、あの馬力、その裏に隠されたかわいたナイーブさ。
 ヘンリー・ミラーは若いころお金がないのでタイプ用紙が買えず、折り込みのチラシかなんかの裏に英文タイプでばりばり原稿をかいていたという。その姿におれはあこがれる。そういう風にしてものが書きたいとずーっと思っていた。
 ワープロが世に出てからそのチャンスはおれにも訪れたといえる。
 ところがワープロが打てない。

 こんな感じでミラーへの想いがよくでている。
 文庫本の解説が十編程のっているのだけど、これがまた秀逸で解説というより一個の立派な作品になっている。中島らもは常々、作品の基となっているのは自分の体験だといっているけど、本を読むことも彼にとっては新鮮な体験として感受できる才能があるのだ。ミラーのあの膨大な『わが読書』しかり。『失われた子どもたちの記』とタイトルされた山岸凉子著『天人唐草』の解説がとりわけ印象的だったので少し長くなるが引用してみる。

 みんなこの世界を前にして途方に暮れている。誰にどう話せばよいのか、彼らはその文法を知らない。唯一よく理解でき、信ずるに足るものが『自殺マニュアル』だったり、ピストルだったりする。これを現代に特有の「社会問題」だととれる人は幸せな人だ。そうではない。これは古代から連綿と続いて来た、生の根源の問題なのだ。子どもたちはいつでも迷子だ。それに対して、「大人」が手をさしのべる?ちょっとまってくれ。大人とは誰だ。カニの甲羅のように価値観の鎧をまとって、自分に何とか形があることでホッと一息ついているそういう人間のことか。略
 「大人」など存在しない。大人と見えるものは、かって迷子が行き迷い、行き迷い、とんでもなくまちがった道を辿ってその先の砂の中の村に辿り着いた、そのなれの果てなのだ。愚鈍と忘却と教条だけが彼らに形を与えている。
 山岸凉子は大人ではない。彼女は秀逸な作家だ。秀逸な作家である限り、決して大人にはなれない。彼女もまた迷子の一人だ。だからこの作品集には「まなざし」が存在するだけだ。道しるべはない。それが正しい。とてつもなく正しいと思う。

 大人になれない秀逸な作家とはヘンリー・ミラーであり中島らも本人であり、今から書こうと思っているチャールズ・ブコウスキーのことでもある。然しこの激越な文章の奥にあるものは一体なんだ。
 彼らは幼年期から思春期にかけての、正直さとあこがれ、恐怖と絶望、気まぐれな悪意と、好奇心に満ちた天使の笑顔、そんなイノセント<純粋な・無罪である・潔白な・無心な>な記憶を忘れないで持続できる、とてつもなく誠実な作家なのだ。だから彼らの文章はけっして僕達を裏切らない。


二十で家を飛び出して三十年、読書と音楽が生活の一部のように暮らしてきた。書き忘れてはいけない。性に対するつきない興味も。孤独な一人暮らしをまぎらす習慣がいつのまにか貴重な経験として荒れ地に積み上げられた廃車の群れのように残されている。生活の役にはなにも立たなかったが、とにかくここまで生きてこれたし、二人の息子と家内でこの信州でつつましく暮らしているつもりだ。季節がめぐるように、穏やかさと多少の混沌の入りまざった実感のある悪くはない信州での七年間だといえる。

***

立岡さんは 今日も会いましたが 「お名前なんていうんですか」というのを聞き忘れました。ずっと前からの知人なのにね。
中島らもとヘンリー・ミラーをこよなく愛する立岡さんですが 無人島にヘンリー・ミラーの本と百科事典、白紙の原稿用紙を持って行くと云ったのは 中島らもですよね。読んで行くうちに らもさんなのか立岡さんなのか もうわからなくなってきました。
ヘンリー・ミラーのこと 私は「北回帰線」しか知らないなあ 思っているところです。それもこの本でさえ最後まで読んだのかもわかりません。
それなのに 私は ヘンリー・ミラーはおもしろいと思い続けている。あの絵のせいですね。
立岡さんにしても ヘンリー・ミラーや中島らものような生き方にあこがれている。
タイプライターに折り込みチラシをはさんで打つ。いいですよねえ。ヘンリー・ミラー タイプライター打ちながら たばこ くわえてるなあ きっと。

中島らもが「失われた子どもたちの記」で
「大人」など存在しない。大人と見えるものは、かって迷子が行き迷い、行き迷い、とんでもなくまちがった道を辿ってその先の砂の中の村に辿り着いた、そのなれの果てなのだ。愚鈍と忘却と教条だけが彼らに形を与えている。
立岡さんこんな言葉好きそうだなあ。
私なんかこんな言葉 ぽんと見せられると 後どうすんの?と言いたくなったりしてね。
太宰治の顔が横切ったりして。
こういう世界は本の中だけにしてよ と。 こどものままで いるのも大変じゃないですか? 「具体的な大人のすすめ」みたいな本のことも横切ったりして。
「ちょいワルおやじとは」とか 「大人はわかってくれない」とか。本のタイトルばっかりが横切ります。
「つまり迷子の決して大人になれない人には「まなざし」が存在するだけ?道しるべはない。それが正しい」
ほんま? 「道しるべはないぜ」こういうこと たしかに ちょっと子供や孫に言ってみたいよね。でも私はふるふるしてて 言えません。

二十で家を飛び出した立岡さん いろいろ出てきそうですが そのことを書いて下さいよ。

さいならさいなら


《 2015.05.11 Mon  _  ちまたの芸術論 》