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1ぺーじ

『音楽と文化』河上徹太郎著 1938年 創元社発行

音楽のことでこんなに古い本を読んでみようなんて
さあいってみましょう。


ショパン

 もし過去百五十年間の西洋音楽の伝統の中から代表的な作曲家を三人あげよといわれたなら、私は幾分躊躇したあげく、バッハとショパンとドビュッシィーをあげるであろう。幾分躊躇するというのは次の理由からである。 すなわち音楽の歴史の正統な継承者というものと、音楽の真の天才というものとはやや種類が違っているのであって、前者即ち歴史の継承者という点では、バッハ、ハイドン、ベートーベンを経て、シューマン、ブラームス、あるいはリスト、ベルリオズ、チャイコフスキーなどを数えねばならないのである。しかしそういう音楽の主流をうけついでこれを適宜自分の天分で持って発展させて次の時代に渡すという炉火(ろか)送りの選手ではなく、誠に溢れるような霊感を持って全然独創的な仕事を持って音楽の領土を拡張した天才は、上述の三人であろう。(しかもその中からモーツアルトを省かねばならないのが残念であるが。)そして天才の法則と言うものが結局大きな目で見てけっしてでたらめな伝統破壊ではなく、やはり革命的な伝統継承であると言う意味からいっても、ここに上げた三人の作曲家の優れた、誠実な仕事は、ずっと後世から見ればかえって真の音楽史の正統な後継者だということになるかも知れないのである。
 私はショパンがピアノ曲しか書かなかったゆえに、ワグネルよりもちいさな作家だとしたり、ソナタやコンチェルトを描いても主観的、叙情的な形式にしか書けなかったゆえにブラームスの下においたりする意見に賛成しない。いかにもショパンの曲の特徴は、小さな、絢爛な、叙情的な、女性的な性格にある。しかしそれだから彼が三流の小作家だということはできない。彼は一流の大作家である。この謬見(びゅうけん・誤った見方)は現在ではいくら誇張して反発してもし足りないくらい根強く行きわたった謬見である。
 アンドレ・ジイドは少年時代に母から音楽教育を熱心に仕込まれて、一時はピアニストになろうと思ったくらい、ピアノの素養もある作家であるが、彼がある音楽雑誌に発表したショパン論は、断片的で不十分なものながら、他の音楽評論家のはっきりいい切れなかった、大胆な意見に満ち、かつ私自身が暗に考えていたことを明瞭に主張してあるの
で、私の興味を持って読んだ一文であった。ジイドもまた多くの演奏家がショパンを諸謂女性的に感傷的に弾いたり、また名人芸を見せる為の気取った、達者な演奏であっさりやってのけるのを極度に反対している。
そしてショパンの偉大さが、単に楽譜の常套的(じょうとうてき)組み立て(よくあるありふれた)にあるのではなく、そのひとつひとつの音を独創的な直感で発見したものの堆積であることを鋭く指摘し、このショパンの独創性を「即興性」と言う言葉で読んでいる。それについてジイドは次のようにいっている。
 「ピアノに向かうとショパンは何時も即興的な態度であったといわれている。しかし、楽想をたえず探し求めてはこれをだんだんと考え出し発見してゆく、という態度を示しているのである。しかも演奏しながらそういう風にためらったり、驚いたり、興奮したりするのには、曲がしだいに形成されてゆく途上になくてはならない訳で、曲があらかじめまったく完全に、正確に、客観的なものとしてできあがっていたのではそうはならないのである。私はショパンが、その最も精妙なある種の曲に即興曲という名称を与えているのを、そういう意味で解釈している。といって何もそれらの曲をショパンが字義通りに即興したというのではないが、然し演奏にあたってこれを即興風に、すなわち、緩慢にとまではいかずとも、不確かな手附で持ってやることは必要である。なにはともあれ、速いテンポに伴いがちな、いい気持ちの弾き方は避けねばならぬ。それは発見しながらする散歩である。 演奏者が弾くものをあらかじめ知っているとか、また、曲がすでに出来上がっているとかいうことを、聴き手にあんまり考えさせるようではいけない。楽節が次々に演奏者の指の先から生まれてゆき、それが彼の中から抜け出て、彼自身を驚異の念で満たし、次に聴き手をおもむろに捕らえてこれを興奮に誘いゆくのでなくてはならぬ。」
 まさにジイドのいうとうりである。ショパンの曲は一音一音たどりながらこれを噛みしめて演奏するに適している。一音一音が自分が発見した音だからである。こういう驚異に満ちた音楽は、まったくバッハをよけて他にない。しかもこの種の鑑賞に耐え得ねば、真の天才的な音楽ということはできない。この「即興性」こそショパンが西洋音楽史を通じての大作家であったことのあかしである。彼に比べれば例えばベートーベンの曲なんてその正反対の例で、曲はいわば形式通りで進行し、その偉大さは形式の劇的な構成の中にあり、一つ一つの音はむしろ無味乾燥で、新しい驚異とか発見とかに乏しいのである。
 ショパンの独創性は、同時にピアノという楽器と結びつけないでは考えられないものがある。自ら名ピアニストであった彼は、その楽器の性能を実によく知っており、この楽器の表現し得る限界の範囲内で、しかもその表現し得る最もよいものをもって作曲した。即ち彼の音楽は実際に演奏された音と切り離して考えられないのであって、これは理屈で考えると第二義的なことに思えるかも知れないが、然し実際問題として彼の独創性と密接な関係のある事情である。実際ピアノを彼ほどピアノらしく取り扱った作曲家はないのである。バッハやモーツアルトはピアノの前身であるクラヴサンのために書いた。ベートーベンのソナタは偉大だが、それはむしろ彼の交響曲の縮図のようなものである。シューマンやブラームスの曲には、その室内学的な要素がたくさんある。ただリストがピアノのために作曲したが、しかしショパンとは随分違った意味でのピアノ曲であり、つまり機械的にピアノの能力の範囲を()張せんとする野心に満ちたもので、ショパンが求心的にピアノの魂の中に触れ、その心からの歌を歌わせようとしたのと反対の立場なのである。ピアニストとしてのショパンについては、以下伝記の中で又述べるであろう。


河上徹太郎さんは過去五十年間の西洋音楽の伝統の中から代表的な作曲家を三人上げよといわれたなら 幾分躊躇したあげく「バッハとショパンとドビュッシー」を上げるであろうといっていますね。
たしかにここにはモーツアルトもないですしベートーベンもありません。そんなに言い切っちゃっていいの?と思いますが こうして展開していく この話は とても興味深いものとなりそうですね。そしてまずショパンのことについて書いてあります。「子犬のワルツ」「雨だれ」でしたっけ? ショパンの独創性はその「即興性」にあるとね。でも 河上サンにいわれなくても この「子犬のワルツ」なんて可愛い子犬が走って来ている姿が目に浮かぶような曲ですよね。でも、アンドレ・ジイドがいっているように ピアノを 女性的に感傷的に弾いたり、名人芸を見せるための気取った、達者な演奏であっさりやってのけるのは 反対だとね。
そうですか、ピアノを調子にのって 名人芸のように弾いてしまいたくなるんだ。気持ちわかりますけどね。
「楽想を絶えず探し求めてはこれをだんだんと考え出し発見していく」すばらしいですね。「ためらったり、驚いたり、興奮したりしながら」 次第に曲が出来上がっていくのですね。
彼に言わせると それにくらべて 「ベートーベンはどうよ」ですよ!「たとえばベートーベンの曲なんてその正反対の例で、曲はいわば形式通りで進行し、その偉大さは形式の劇的な構成の中にあり、一つ一つの音はむしろ無味乾燥で新しい驚異とか発見とかに乏しいのである」などといっています。
天下のベートーベンのことを こんなふうに いってくれましたよね。面白くなってきました!
しかしもうちょっと読みやすかったらなあ。
私は音楽評論など読んだことがありません。言われるままに聞いている なんですが。
続きは いずれまた
さいならさいなら
《 2015.05.10 Sun  _  ちまたの芸術論 》