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おたより

Fさんからのおたよりの続きです。どういうことが書いてあるんでしょう。


 河上徹太郎がいままでの定説をくつがえして、自分の意見を言い切ってしまうのはすがすがしいことなんでしょうね。評論はこうでなければ面白くないと思います。
ジイドの「然し演奏にあたってこれを即興風に、すなわち、緩慢にまでとはいかずとも、不確かな手附で持ってやることは必要である。」のところ、特に面白かったです。ジャズのピアニスト・モンクを思い出しました。 
 絵画でもクラシック音楽でもその分野の評論家は作品の定説を把握して、それを受け入れた上で解説することが多いのでは?だから楽曲や絵画の作品と拮抗した評論が少なく、作品にもたれかかった評論が多いのでは?こういう評論は、ロックでもあります。Bob  Dylanの評論がそうです。新しいアルバムが出て、たいして面白くない作品でも必ず評論家と称する人たちは美辞麗句を駆使して褒めます。天下のDylanを批判する勇気はない様子。
NHKの日曜美術館という番組を時々みます。ステキな作品にあうことが多いからです。作品の評価が世間で決まっており、その作品が「立派な芸術作品」であることに安心しきって、論を展開している時は面白くない。
 河上徹太郎の論は偏見ではありませんが、もしそういう人がいたら「偏見をもつ自由」と言う言葉が思い浮かびます。
 私にとって彼やジイドの文章が、抵抗なく入ってくるのは、今まで私が聴いてきた音楽の多くが彼等の言う、即興性の音楽だったからではないかと思います。優れたジャズやロックなどのミュージシャンほどそうです。都はるみですらそうです。
 もしかして私の言ってることは、ずれてきてますか?こうやって書いていると、どんな音楽も、クラシックの音楽家もみんなそうではないかと発展してゆきそうなことを私は書き始めている。河上さんが言っているのは、ショパンの曲そのものが、「即興性」を必然としているということですよね。
 ショパンの音楽はそういうことか、今度ちゃんと河上さんの言うことを思い出しながら聞いたらもっと面白く聴けるかも知れないと思いました。ショパンも曲をたくさん聴いてきたわけではありませんが、「ショパンはちょっと情緒的でベッタリしてくる曲が多いかなあ」と感じていたんです。それはきっと、そういう演奏をする人の録音を聞くことが多かったからかもしれませんね。
 私は傲岸(ごうがん)ですかね。でも自分をなるべく裸にして書くとこうなってしまうのです。欠点丸出し。お許しあれ。

「それは発見する散歩である。」という言葉も感じたなあ。そんな音楽の演奏、
ワクワクします。

***

Fさんおたより 続きます。ありがとうございました。
少しずつしか打てないのですが とにかく私の目は 文章を真面目に捕らえることが出来ませんので この少しづつ指で打つことで やっと何が書いてあるのかはっきりして 「なかなかいいことかいてあるなあ」となるのです。
定説をくつがえすような評論をやってのける河上おじさんですが、(すみませんこんなふうで)手応えのある評論というのは なかなか出てこないのですね。評論を書いてもらう側も たくさんそのレコードとか買ってほしいもの 褒めてほしいですよね。
あっ そうじゃなくて つまりショパン 聞かんとなあ。
Fさん 言いたいことは 言っておいて下さい。いつわれわれ人類はどうなるかわかりませんからね。
きのうアフリカの「ぞう」のえさと水を求めての 長い旅の様子を見ました。 つい「ぞうはえらいわ!」と何度も言ってしまいました。この音楽関係とどう結びつくの?
こんなに生きることに真剣な生き物いるのかしら そこで生きる生き物全体にいえることなんだけど。あらゆる知恵を出して 勇気を出して 危険な目に遭いながら 進む。即興性な知恵。でもエサや水に巡り会えた時の あの喜びかた。すべて即興ですよね。
なんかめちゃくちゃ 美しい生ちゃう?と。神さんがいるとしたら すべてのものに そんな しっかり手応えのある生を見てみたいと思ってるのかなあ なんてね。
ねっあったあった 「手応えのある」この言葉。
「都はるみですらそうですから」これ都はるみ の 魅力やで。そうか あのうなりが うなりで ああなんですね。なにをいっとるんだね のりばっぱ。
かっこーの歌も始まりました はい。 突然のように 始まるんですよね。

おたよりおまちしてます


《 2015.05.14 Thu  _  ちまたの芸術論 》